明治政府に対して、国会の開設を建白書や請願書などによって要求した国民的な運動。1874年(明治7)1月17日、板垣退助(たいすけ)、副島種臣(そえじまたねおみ)、後藤象二郎(しょうじろう)、江藤新平(しんぺい)、古沢滋(ふるさわしげる)ら8名は、愛国公党の決議として民撰(みんせん)議院設立建白書を左院に提出した。愛国公党は下野した参議を中心に結成された日本における最初の政党で、建白書はこの運動の一つの引き金となったが、その主張は士族と豪農商層に限っての政治参加を求めたものであった。77年6月9日には、8項目にわたって政府の失政をあげた立志社建白が、京都の行在所(あんざいしょ)に提出され、民権運動の基本的要求である国会開設・地租軽減・条約改正などの国民的課題が初めて掲げられた。75年に各地方の自由民権結社を結集して結成された愛国社は、その後自然消滅していったが、78年に再興され、翌年の第3回大会では、豪農層を中心とする各地の政社も参加し、国会開設願望書の提出が決議された。80年の第4回大会には、2府22県、約10万人余の請願委託を受けた114人の総代が集まり、国会期成同盟として新発足し、片岡健吉、河野広中(こうのひろなか)らによって国会開設願望書が太政官(だじょうかん)に提出された。
一方、こうした「愛国社系政社の潮流」とは別に、この運動のもう一つの原動力となったのは、地租改正反対運動や民会・府県会活動を通して政治的成長を遂げた地方の豪農層主体の「在地民権結社の潮流」(「在村的潮流」とか「非愛国社路線」「県議主導路線」などともいわれる)である。とくに千葉県の一村議桜井静(しずか)が、79年7月に、全国の府県会議員に、国会開設の方法を協議する東京集会を開くことを呼びかけた「国会開設懇請議案」は、各地の活動家に大きな刺激を与えた。岩手、新潟、長野、茨城、山梨、岡山、広島、福岡などが、いち早く呼応し、署名獲得運動や政社の結成に向かった。その方法は、郡書記、県議、戸長などの村の有力者が先頭にたって、その信望を利用しながら、徹底した説得方式をとるものであった。岡山のように、数か月のうちに2万5000余人の署名を集め、国会開設を懇請する檄文(げきぶん)「同胞兄弟に告ぐ」を発表し、上京してきたところもある。この檄文は多くの青年たちを励まし、暗唱もされたという。
国会開設請願運動は、これら「愛国社系」と「非愛国社系」の二つの潮流が合流して一気に盛り上がり、全国へと広がっていった。1874年から81年の8年間に起草・提出された建白書は90件、請願書は40件で、国会期成同盟が結成された80年がピークとなっている。これらに署名参加した者は、沖縄と宮崎を除く全府県から31万9000人以上を数え、とくに高知、千葉、広島、岡山、神奈川、長野などが目だって多い。この請願の波が、10年後の国会開設を約束した詔勅を引き出す大きな力となった。
なお、政府の公約した国会開設の時期が近づいた1884年(明治17)11月7日、自由党解党大会で決議された「国会開設期限短縮建白書」が元老院に提出され、翌85年にかけて、同様の建白書提出の動きが各地でみられた。
[新井勝紘]
『内藤正中著『自由民権運動の研究』(1964・青木書店)』▽『後藤靖著『自由民権』(中公新書)』▽『永井秀夫著『日本の歴史25 自由民権』(1976・小学館)』▽『色川大吉著『自由民権』(岩波新書)』▽『江村栄一著『自由民権革命の研究』(1984・法政大学出版局)』
明治政府にたいし国会の開設を請願や建白の形で要求した政治運動で,自由民権運動の主要な一部分をなす。板垣退助らの〈民撰議院設立建白書〉(1874)を起点とし,国会開設の詔勅発布(1881)にいたる期間の運動を考えるのが普通である。この間に提出された建白書・請願書で現在知られているのは約120件,これに参加した者は26万6000人を超えているが,件数の60%以上が1880年に集中していて,請願運動の最盛期がここにあったことを示している。運動は初め板垣らの組織した立志社のような士族結社の運動としておこり,連合組織としての愛国社(1875年結成,まもなく解体して78年再興)を生んだが,やがて各地で豪農・豪商を中心とする勢力が地方民会を要求し,府県会議員として登場してこの運動をおしひろげ,これに教員・新聞記者・代言人などの知識人や青年たちが加わって,広範な国民的運動となった。80年3月の愛国社第4回大会には,従来加盟の各結社のほかに,多数の全国有志が参加して国会期成同盟を発足させ,国会開設の上願書を提出した。国会開設を要求する根拠として各請願書・建白書があげているのは,天賦人権論から五ヵ条の誓文にいたる広範なものであるが,その中で一般的に見られるのは,租税・兵役の負担者である国民の財政共議権の要求であり,また内政・財政・外交の諸問題を打開するには国会開設以外にないという観点であった。国会の形態としては,一院制,二院制の双方が見られる。請願運動の高揚によって政府は動揺し,憲法・国会構想をめぐる内部対立も深刻になったが,81年の開拓使官有物払下事件によって窮地に追い込まれたのを機会に,同年10月,国会開設の詔勅を発布するとともに内部の淘汰と統一を回復した(明治14年の政変)。国会開設請願運動は,いちおうその目的を達し,以後政党の組織と来るべき国会への準備に,政治運動の重心が移っていく。
→自由民権 →民撰議院設立建白
執筆者:永井 秀夫
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