玄洋社(読み)ゲンヨウシャ

デジタル大辞泉 「玄洋社」の意味・読み・例文・類語

げんよう‐しゃ〔ゲンヤウ‐〕【玄洋社】

明治14年(1881)、頭山満とうやまみつるが中心となり結成した超国家主義団体。対外強硬策を主張した。昭和21年(1946)解散。

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精選版 日本国語大辞典 「玄洋社」の意味・読み・例文・類語

げんよう‐しゃ ゲンヤウ‥【玄洋社】

明治から昭和にかけての超国家主義団体。明治一四年(一八八一平岡浩太郎を社長に、頭山満、箱田六輔らが福岡で創立した。当初向陽社と称し、国会開設運動に参加していたが、次第に国権主義に傾斜して右翼の一大勢力となり、政治、外交、戦争などに黒幕的工作活動を行なった。昭和二一年(一九四六占領軍の指令で解散。

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百科事典マイペディア 「玄洋社」の意味・わかりやすい解説

玄洋社【げんようしゃ】

明治時代の国家主義大アジア主義の草分的団体。1881年平岡浩太郎〔1851-1906〕を社長として創立。母体は筑前の没落不平士族の結社たる向陽(こうよう)社。初め自由民権運動に参加したが,1886年頃炭鉱を所有して財政を固めた同社は大陸進出の綱領を掲げて次第に国権主義的性格を強め,条約改正反対・対露強硬策を主張,大隈重信襲撃事件などもひき起こした。参謀本部と密接な関係をもち日清・日露戦争には裏面協力,初期の中国革命にも参画。以後も実質的な最高指導者であった頭山満が中心となって右翼・政界の裏面で力を振るった。1946年GHQの指令により解散。→黒竜会対露同志会
→関連項目内田良平東洋自由党広田弘毅福本日南夢野久作

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改訂新版 世界大百科事典 「玄洋社」の意味・わかりやすい解説

玄洋社 (げんようしゃ)

日本の国家主義・大アジア主義の草分けをなす団体。明治維新後,没落した旧福岡藩士中の不平分子は専制政府打倒を唱え,各地の不平士族の武力蜂起への同調を企てる一方,板垣退助の立志社にならって民権伸張を論じていた。1876年の萩の乱への参加計画が失敗し,翌年の西南戦争に応じた挙兵も鎮圧されると,彼らは箱田六輔,平岡浩太郎,頭山満らを中心に79年向陽社を設立し,愛国社,のちに国会期成同盟の一員として藩閥政府を攻撃し国会開設請願運動を行った。81年向陽社は玄洋社と改称,平岡が社長となり,〈皇室を敬戴す可し 本国を愛重す可し 人民の権利を固守す可し〉との〈憲則〉を制定した。86年ころから炭鉱を所有して財政の基礎を固めた同社は,しだいに民権論を離れて国権拡張とそのための軍備拡張とを主張しはじめ,帝国議会が開設されると吏党と提携したのみならず,92年の第2回総選挙では政府の選挙干渉の手先となって福岡県内各所で民党派を襲い流血事件をひきおこした。条約改正問題では井上馨案や大隈重信案への反対運動を行い,社員が大隈を襲って重傷を負わせた。また,日清戦争を開戦に導き朝鮮を併合するための口実をつくることをねらって,94年天佑俠を朝鮮に送った(ただし,このことを否定する説も存在する)。国民同盟会や対露同志会に加わって対露強硬外交を唱える一方で,満州義軍を派遣して日露戦争の後方工作を行わせようともした。頭山が孫文ら亡命政治家の日本滞在中の活動を援助したのも,こうした大陸侵略をめざす運動の一環であった。玄洋社の活動は関係者が設立した黒竜会(1901)や浪人会(1908)にひきつがれていった。1946年GHQの指令で解散した。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「玄洋社」の意味・わかりやすい解説

玄洋社
げんようしゃ

日本の国家主義団体。旧福岡藩の不平士族の運動を背景に、1881年(明治14)箱田六輔(ろくすけ)、平岡浩太郎(こうたろう)、頭山満(とうやまみつる)らが福岡で結成、国家主義運動の草分けとして活躍した。国会開設請願など、自由民権運動にもくみしたが、憲則に、(1)皇室の敬戴(けいたい)、(2)本国の愛重、(3)人民権利の固守を掲げ、国権の確立によって民権が伸長されるとの立場にたち、国家主義に傾斜した。故西郷隆盛(たかもり)らの征韓論を受けて大陸進出を主張、89年には社員来島恒喜(くるしまつねき)が条約改正問題で外相大隈重信(おおくましげのぶ)に投弾するなど、対外強硬論のテロも行った。日清(にっしん)戦争前後から朝鮮・中国で画策、日露戦争では満州義軍を組織してゲリラ活動に従事した。また金玉均(きんぎょくきん/キムオクキュン)ら韓国の政客と結び、日本の韓国併合を準備する一方、孫文(そんぶん/スンウェン)らとも連絡、初期の中国革命に参画し、社員から多くの大陸浪人を輩出した。黒竜会、浪人会などの国家主義団体も玄洋社を母胎にしており、のちにはこれらの団体が玄洋社の運動を引き継ぐ形となった。その後は育英事業などを中心に、国家主義の鼻祖として隠然たる影響力を保っていたが、1946年(昭和21)占領軍の指令で解散。

[岡部牧夫]

『『玄洋社社史』(1917・同社社史編纂会)』『葦津珍彦著『大アジア主義と頭山満』(1972・日本教文社)』

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「玄洋社」の解説

玄洋社
げんようしゃ

旧福岡藩士によって組織された国家主義・大アジア主義の政治団体。1881年(明治14)成立。「皇室の敬戴,本国の愛重,人民権利の固守」を掲げた。前身の向陽社時代は土佐の立志社とも連携し,民権に積極的であったが,玄洋社は国権拡張に力点を移した。当初の主要メンバーは箱田六輔(ろくすけ)・平岡浩太郎・頭山満(とうやまみつる)・進藤喜平太ら。条約改正反対運動では社員来島恒喜(くるしまつねき)が大隈重信外相に爆裂弾を投ずるなど,対外硬派中の実行派として活動。韓国・中国に人を派遣し,商業活動,現地の政治家との接触,さらには政治家の日本招請など対外活動にも積極的であった。第2次大戦後,国家主義の右翼団体としてGHQ指令により解散。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「玄洋社」の意味・わかりやすい解説

玄洋社
げんようしゃ

1881年2月福岡にあった向陽社を改称して結成された政治団体。設立時の社長は平岡浩太郎。主たる社員に頭山満がいた。民権結社として出発したが,次第に国権主義的傾向を強め,のちの多くの国家主義的右翼団体の母体となった。 1946年 GHQの指令により解散した。

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旺文社日本史事典 三訂版 「玄洋社」の解説

玄洋社
げんようしゃ

明治〜昭和期の超国家主義団体
福岡県士族が士族反乱の敗退後頭山満 (とうやまみつる) らを中心に結成した向陽社の後身。1881年玄洋社と改称。初め自由民権運動に加わったが,明治20年代以後は対外強硬策を主張する国権論の色彩を強めた。1946年GHQ指令により解体。

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世界大百科事典(旧版)内の玄洋社の言及

【右翼】より

…この言葉は,その性格上,客観的記述のためより相手方への評価をこめた政治用語として使われることが多い。【坂本 多加雄】
[日本の右翼]
 日本の右翼運動は,明治政府の欧化政策に反対するため,士族反乱や自由民権運動と結んで反政府運動を展開していた平岡浩太郎や頭山満らが,1879年に向陽社を結成し,81年にそれを玄洋社と改称したときに開始された。やがて玄洋社は自由民権運動からはなれ,条約改正即時断行,日清開戦,大陸への進出などの対外強硬策を主張する国家主義団体に成長していった。…

【天佑俠】より

…日清戦争の際,朝鮮で活動した玄洋社系の団体。1894年,東学農民軍が蜂起すると,これを日清開戦の導火線にしようとする軍部,玄洋社の意をうけて鈴木天眼,内田良平らが渡海し,すでに釜山居留地でアジア経綸を語らっていた田中侍郎,武田範之らのグループに合流した。…

【頭山満】より

…1876年同藩の不平士族の蜂起計画に加わって逮捕され,1年間入獄。79年板垣退助の強い影響下に箱田六輔,平岡浩太郎らと向陽社を設立,同じころ別に組織した筑前共愛会とともに国会開設請願運動等を行い,81年箱田や平岡らと玄洋社を設立した。しだいに民権論を離れ,日本はアジアを制覇してその〈盟主〉となるべきだと主張しはじめ,同社をこの国権論で統一する一方で炭坑を同社の財源とすることに成功して,同社の事実上の最高指導者となった。…

※「玄洋社」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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