百科事典マイペディア 「国富荘」の意味・わかりやすい解説
国富荘【くどみのしょう】
国富荘【くにとみのしょう】
→関連項目今富荘
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(1)若狭国遠敷(おにゆう)郡国富郷に成立した荘園。現在の小浜市次吉・熊野・羽賀・奈胡のあたりと,北方若狭湾岸の浦犬熊の地を含んだ。太政官厨家領。元来吉原安富(左大史小槻隆職)の相伝私領であったが,1165年(永万1)官御祈願米・造八省院料米・法花会料米・官厨家納絹代計200石を進済する便補保(びんぽのほ)とされ,国富保と称した。下って95年(建久6)には,保司・太政官厨家の申請により,太政官は四至を定め牓示(ぼうじ)を打って立券し,国郡使の入勘と課役を停止するとともに,安富の子孫の相伝領掌を認めた。以後荘号をもって呼ばれる。当時田地34町余・荒地3町余と犬熊野浦とから成っていた。13世紀初期以降,地頭の非法が激しく,1278年(弘安1)には,領家・地頭間で和与中分がおこなわれ,以後領家方・地頭方に分割された状態が戦国期に至るまで継続する。鎌倉末には地頭職は北条氏得宗が知行していたが,幕府滅亡後これは小槻氏に付された。15世紀初め(応永年間)には領家知行分に半済(はんぜい)が課されていたことが知られ,以後ほぼこの状態が続いたらしい(以上壬生家文書)。1550年(天文19)12月5日の南部膳行宮敷地等寄進状に〈国富地頭方〉とあるのが荘名の最終所見と思われる(羽賀寺文書)。
執筆者:須磨 千穎(2)日向国大淀川下流域を中心に存在した広域荘園。平安時代後期,八条院領として成立。早く在国司日下部氏およびその跡を継承した田部姓土持氏らが勢力基盤としていたところで,彼らは後に地頭や公文等になっている。源平交替期にいったん没官領となったが,1184年(元暦1)八条院領として平頼盛の領家職が安堵されている。97年(建久8)の日向国図田帳によれば,国富荘田代1502町のうち,一円荘1382丁で川南の宮崎郡内加江田80丁,加納200丁以下が地頭平五,国富本郷240丁ほかが地頭土持太郎宣綱,川北の那珂郡内那珂200丁以下と児湯郡内佐土原15丁ほかが地頭同人であり,寄郡(よせごおり)120丁で川北の児湯郡内穂北郷70丁,鹿野田郷50丁が地頭同人となっている。鎌倉幕府滅亡後,足利尊氏領であったが,1340年(興国1・暦応3)天竜寺に寄進された。1335年(建武2)以降,南加納・太田城をはじめ荘内各所は南北両党の戦場となった。
執筆者:五味 克夫
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