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信太荘 しだのしょう

百科事典マイペディアの解説

信太荘【しだのしょう】

常陸国信太郡の荘園。現茨城県稲敷(いなしき)郡西部から土浦市・新治(にいはり)郡南部にかけてあった。1151年平頼盛の母藤原宗子(池禅尼)が信太郡西条(さいじょう)を美福門(びふくもん)院に寄進して立荘。本家分の年貢公事(くじ)は国八丈絹300疋・仕丁6人。後宇多院のとき本家職・領家(りょうけ)職とも京都東(とう)寺に寄進。荘内は66郷からなり,1276年の公田826町。観応(かんのう)の擾乱(じょうらん)以後,東寺の支配は不可能となり,室町〜戦国時代には上杉氏の知行地となる。上杉氏被官土岐氏臼田氏は代官として荘内に移住し,かつて諸郷を分割統治していた地頭北条一族の惣領の拠点であった惣政所(そうまんどころ)を押えた。とくに土岐氏は当地を本拠にして戦国大名へと成長する。なお荘内浦渡宿(古渡津(ふっとのつ))は古くから海民の根拠地で,河川交通の要所として都市的集落を形成していた。

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世界大百科事典 第2版の解説

しだのしょう【信太荘】

常陸国信太西条(現,茨城県稲敷郡)を1151年(仁平1)平頼盛の母藤原宗子(池禅尼)が美福門院に寄進,成立した荘園。田地620町(あるいは826町)。東は榎浦をに信太東条(東条荘),北は桜川を境に南野荘,西は花室川・乙戸(おつと)川を境に田中荘,南は小野川を境に河内郡と接する。本家分の年貢公事は国八丈絹300疋,仕丁6人。荘司紀氏ともいわれるが不明。平安末期,志太義広勢力圏にあり,鎌倉幕府成立後は八田知家が地頭となる。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

信太荘
しだのしょう

常陸(ひたち)国信太郡に成立した荘園。現在の茨城県土浦市南部、つくば市南東部、阿見(あみ)町、美浦(みほ)村、牛久(うしく)市東部、稲敷(いなしき)市東部などを含む広大な地域にあたる。郷数66、惣公田(そうこうでん)数は826町(『東寺百合文書(とうじひゃくごうもんじょ)』)とも、620町(『常陸国大田文(おおたぶみ)』)ともいわれる。1151年(仁平1)に平頼盛(よりもり)の母、藤原宗子(池禅尼(いけのぜんに))が鳥羽院(とばいん)もしくは美福門院(びふくもんいん)得子に信太郡西条を寄進し成立した。本家職は八条院(しょうし)に伝領され、八条院領荘園の一つとなる。一方、領家職は頼盛、さらにその子息光盛(みつもり)に伝えられるが、光盛は某人の南野荘と当荘を交換している。同じころ、当荘は河内(かわち)金剛寺(こんごうじ)に寄進されており、領家職は金剛寺がもったとみられるが、詳細不明。承久(じょうきゅう)の乱(1221)で八条院領は一時没収されるが、その後戻され、当荘も鎌倉末まで皇室領であった。ところが、1318年(文保2)東寺復興を企図した後宇多(ごうだ)院は、当荘を東寺供僧(ぐそう)・学衆(がくしゅう)両方に寄進し、ここに東寺領となる。鎌倉期当初の地頭(じとう)は小田(おだ)氏といわれているが、鎌倉末期には北条(ほうじょう)氏の一族によって占められていた。そのため、鎌倉幕府が滅亡すると、信太荘の年貢京進に大きな混乱が生じ、東寺は南北朝期には自らその再建を行わなければならなくなった。しかし、遠国荘園である当荘の再編整備は進まず、有名無実の状態になっていった。南北朝期、この一帯は南朝方の小田一族の拠点となり、信太荘もその影響下にあり、しばしば両党の争奪の地となった。1388年(元中5・嘉慶2)に鎌倉府によって小田城が攻められ、信太荘は鎌倉府の支配に入り、管領(かんれい)上杉氏が支配にあたった。実際には臼田(うすだ)氏、土岐原(ときはら)氏、大越(おおごし)氏、近藤(こんどう)氏が管理したが、室町末から戦国の東国の混乱のなかで江戸崎の土岐氏がこの一帯を押さえた。このころには荘園の機能はまったく失われていた。[飯沼賢司]
『網野善彦著『中世東寺と東寺領荘園』(1978・東京大学出版会)』

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