百科事典マイペディア 「信太荘」の意味・わかりやすい解説
信太荘【しだのしょう】
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常陸(ひたち)国信太郡に成立した荘園。現在の茨城県土浦市南部、つくば市南東部、阿見(あみ)町、美浦(みほ)村、牛久(うしく)市東部、稲敷(いなしき)市東部などを含む広大な地域にあたる。郷数66、惣公田(そうこうでん)数は826町(『東寺百合文書(とうじひゃくごうもんじょ)』)とも、620町(『常陸国大田文(おおたぶみ)』)ともいわれる。1151年(仁平1)に平頼盛(よりもり)の母、藤原宗子(池禅尼(いけのぜんに))が鳥羽院(とばいん)もしくは美福門院(びふくもんいん)得子に信太郡西条を寄進し成立した。本家職は八条院暲子(しょうし)に伝領され、八条院領荘園の一つとなる。一方、領家職は頼盛、さらにその子息光盛(みつもり)に伝えられるが、光盛は某人の南野荘と当荘を交換している。同じころ、当荘は河内(かわち)金剛寺(こんごうじ)に寄進されており、領家職は金剛寺がもったとみられるが、詳細不明。承久(じょうきゅう)の乱(1221)で八条院領は一時没収されるが、その後戻され、当荘も鎌倉末まで皇室領であった。ところが、1318年(文保2)東寺復興を企図した後宇多(ごうだ)院は、当荘を東寺供僧(ぐそう)・学衆(がくしゅう)両方に寄進し、ここに東寺領となる。鎌倉期当初の地頭(じとう)は小田(おだ)氏といわれているが、鎌倉末期には北条(ほうじょう)氏の一族によって占められていた。そのため、鎌倉幕府が滅亡すると、信太荘の年貢京進に大きな混乱が生じ、東寺は南北朝期には自らその再建を行わなければならなくなった。しかし、遠国荘園である当荘の再編整備は進まず、有名無実の状態になっていった。南北朝期、この一帯は南朝方の小田一族の拠点となり、信太荘もその影響下にあり、しばしば両党の争奪の地となった。1388年(元中5・嘉慶2)に鎌倉府によって小田城が攻められ、信太荘は鎌倉府の支配に入り、管領(かんれい)上杉氏が支配にあたった。実際には臼田(うすだ)氏、土岐原(ときはら)氏、大越(おおごし)氏、近藤(こんどう)氏が管理したが、室町末から戦国の東国の混乱のなかで江戸崎の土岐氏がこの一帯を押さえた。このころには荘園の機能はまったく失われていた。
[飯沼賢司]
『網野善彦著『中世東寺と東寺領荘園』(1978・東京大学出版会)』
常陸国信太西条(現,茨城県土浦市など)を1151年(仁平1)平頼盛の母藤原宗子(池禅尼)が美福門院に寄進,成立した荘園。田地620町(あるいは826町)。東は榎浦を境に信太東条(東条荘),北は桜川を境に南野荘,西は花室川・乙戸(おつと)川を境に田中荘,南は小野川を境に河内郡と接する。本家分の年貢公事は国八丈絹300疋,仕丁6人。荘司は紀氏ともいわれるが不明。平安末期,志太義広の勢力圏にあり,鎌倉幕府成立後は八田知家が地頭となる。本家は八条院・安嘉門院・亀山上皇を経て昭慶門院,領家は頼盛・光盛ののち一時は河内金剛寺に寄付されるが,1318年(文保2)後宇多法皇が東寺供僧・学衆に寄進する。承久の乱後,地頭職はおそらく北条政村となり,上条・下条に分かれた66郷はその子孫たちに分与されており,東寺はこの地頭たちから鎌倉最末期に30余貫の年貢銭を得たが,観応の擾乱で完全に不知行となる。
室町幕府成立後,鎌倉府の料所として,下条に高氏,上条に上杉氏が入っていたが,擾乱後,下条はいったん佐々木道誉に与えられた。その後〈江州〉(氏名未詳)の手を経て,1374年(文中3・応安7)小田孝朝の知行下に入るが,孝朝は小山若犬丸の乱に荷担,85年(元中2・至徳2)以後,戦国期まで山内上杉氏が支配した。信濃で上杉氏被官となった土岐氏,臼田氏も現地に移住,とくに土岐氏は江戸崎を本拠に戦国大名となった。荘内には東条荘との境に,河川交通の要所で小港町の様相を持つ浦渡宿(古渡(ふつと))があり,全荘の寺社供僧が木原・竹来(たかく)社を中心に祈禱衆という自治的集団をなすなど,東国荘園としては珍しくその実態を詳しく知りうる。
執筆者:網野 善彦
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