広島城跡(読み)ひろしまじようあと

日本歴史地名大系 「広島城跡」の解説

広島城跡
ひろしまじようあと

[現在地名]中区基町

広島市域の南、太田おおた川河口の三角州上に建設された掻揚城。広島城下の北寄り中央に位置した。広島城の名称は初代城主毛利輝元の祖先大江広元の広と、城池の選定に功のあった輝元の家臣福島大和守元長の島とを併せたものと伝えるが(瑞川寺縁起、広島開基など)築城当時太田川三角州のうち、最大の面積のあった州(島)を城池とし広島と名付けたものと考えられる。広島城は在間ざいま(芸陽記)当磨たいま(満松院天満宮棟札)こい(鯉魚城)などとも称し、由来もさまざまに説明されるが、広島城下付近の旧称ヶ庄の一といわれる在間庄にちなむ在間城以外は、正確な名称由来は不詳である。

天正一七年(一五八九)輝元は普請奉行に二宮就辰・穂田元清を選び四月に鍬初めを行ったが、それ以前正月には惣構土手の普請にかかっている。同年正月一九日付の二宮就辰宛毛利輝元書状(「譜録」所収二宮太郎右衛門家文書)には「島普請せひとも可仕立存候、世上之おもハく嘲にて候条、かい分可申付候」とあり、この築城を島普請と称している。また三角州上に城池を決めたことによる基礎工事の大変さと、世間の反応が知られる。また同年二月一六日の書状(同文書)では「石くミのこと大なる手間可入候哉、石とも之ふときハ不入候、ほそきにてつき候てよく候すると存候、それも石かす可入候条、少々之調にてハ成間敷候、然ハ罷下候可見合候」と助言をし、七月二日付書状でも「普請さそやさそや其方心遣令察候」と記している。この工事は翌一八年末に城濠が完成、一九年正月に輝元は入城、文禄元年(一五九二)四月豊臣秀吉が朝鮮出兵指揮のため九州に下向する途次立寄ったときは、天守閣その他城内の諸建築はほぼ完成、その出来栄えは秀吉の賞賛を得たという(毛利家文書)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

国指定史跡ガイド 「広島城跡」の解説

ひろしまじょうあと【広島城跡】


広島県広島市中区基町にある城跡。別名、鯉城(りじょう)。戦国時代に中国9ヵ国を平定した毛利氏が太田川河口に築城した平城である。築城は1589年(天正17)に始まり、1593年(文禄2)にはほぼ完成したとされる。1591年(天正19)に郡山城から毛利輝元(てるもと)が入城し広島城と称したが、関ヶ原の戦い後に毛利氏は転封となった。代わって入城した福島正則(まさのり)は城郭整備に熱心であったが、これが武家諸法度(ぶけしょはっと)に触れたという口実で改易され、その後、浅野長晟(ながあきら)が入封し、以後浅野氏の居城として城下町が整えられた。本丸は南北にやや長い長方形で、これを守って堀をめぐらし、大手虎口を固める堀の中に狭小な二の丸を設け、この本丸、二の丸はさらに三の丸惣構えによって囲まれている。1945年(昭和20)に原爆によって旧来の建物はすべて焼失したが、本丸を囲む石垣などが残り、1953年(昭和28)に国の史跡に指定された。1958年(昭和33)に鉄筋コンクリート造りで5層の天守閣が再建された。その後、二の丸表御門、平櫓(ひらやぐら)、多聞櫓(たもんやぐら)、太鼓櫓が復元されている。JR山陽新幹線ほか広島駅から広島電鉄「紙屋町西電停」下車、徒歩約10分。

出典 講談社国指定史跡ガイドについて 情報

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