日本歴史地名大系 「広島城跡」の解説
広島城跡
ひろしまじようあと
広島市域の南、
天正一七年(一五八九)輝元は普請奉行に二宮就辰・穂田元清を選び四月に鍬初めを行ったが、それ以前正月には惣構土手の普請にかかっている。同年正月一九日付の二宮就辰宛毛利輝元書状(「譜録」所収二宮太郎右衛門家文書)には「島普請せひとも可仕立存候、世上之おもハく嘲にて候条、かい分可申付候」とあり、この築城を島普請と称している。また三角州上に城池を決めたことによる基礎工事の大変さと、世間の反応が知られる。また同年二月一六日の書状(同文書)では「石くミのこと大なる手間可入候哉、石とも之ふときハ不入候、ほそきにてつき候てよく候すると存候、それも石かす可入候条、少々之調にてハ成間敷候、然ハ罷下候而可見合候」と助言をし、七月二日付書状でも「普請さそやさそや其方心遣令察候」と記している。この工事は翌一八年末に城濠が完成、一九年正月に輝元は入城、文禄元年(一五九二)四月豊臣秀吉が朝鮮出兵指揮のため九州に下向する途次立寄ったときは、天守閣その他城内の諸建築はほぼ完成、その出来栄えは秀吉の賞賛を得たという(毛利家文書)。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報