江戸期の本草(ほんぞう)・名物(めいぶつ)書。稲生若水(いのうじゃくすい)の著作。1693年(元禄6)加賀藩主前田綱紀(つなのり)の儒官として登用された若水は、中国の書『皇明経世文編』中に「日本には薬物の原料となるべき物産がない」という記事をみいだし、発奮して『庶物類纂』の著作を決意したと伝えられる。計画では中国名の薬物の項が1000巻、日本名のみの薬物について1000巻、計2000巻という膨大なものであった。1715年(正徳5)、若水は362巻まで手録したが病没、その後綱紀が弟子たちに継続を命じたが、彼も完成を待たずに死去した。その後は8代将軍徳川吉宗(よしむね)が後援し、丹羽正伯(にわしょうはく)らの手により若水の死後32年目、1747年(延享4)に、正編1000巻および補編54巻として完成したが、あまりの膨大さに出版はされなかった。内容的には物産学的傾向が強く、これに影響されて以後の日本の本草学はしだいに博物学的色彩が濃くなっていった。国立公文書館と金沢市立図書館に当時の筆記本が残されている。
この書は26属(草、花、鱗、介、羽、毛、水、火、土、石、金、玉、竹、穀、菽(しゅく)、蔬(そ)、海菜、水菜、菌、蓏(ら)、造醸、虫、木、蛇、果、味)に分類して4200余種を配し、各種に実物に対照して和名、俗名を掲げる。また古今の文献から関係文を抄出し、編者の意見を加え、薬物、食物、工芸に誤らないことを期している。この事業により、地誌を活用することや、本草と物産の学が盛んになった。
[難波恒雄・御影雅幸]
江戸中期の本草・名物学書。稲生若水(いのうじゃくすい)が加賀国金沢藩主前田綱紀の命で,1697年(元禄10)から1000巻の計画で編纂を始めるが,前編362巻までで病死。これを惜しんだ将軍徳川吉宗の命で若水の門人丹羽正伯(にわしょうはく)・内山覚仲(かくちゅう)らが増修事業を行い,1738年(元文3)後編638巻を完成,計1000巻とした。のち54巻を増補。動植物,鉱物など3590種を26属に分類し,中国の本草書・農書・地方志・随筆・文集の説を広く抄録し,その和名を考定する。全巻漢文で書かれ,幕府の文庫に収められたため,一般にはほとんど利用されなかったが,増修の過程で幕府により大規模な全国的産物調査が実施され,「諸国産物帳」が作られた意義は大きい。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
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…1693年(元禄6)加賀藩主前田綱紀に儒者,本草家として召し出された。《庶物類纂》1000巻の編述を志し,綱紀の後援のもとに作業をはじめ,362巻を完成しただけで死去した。これは中国文献にある動植物の記事を集録したもので,名物学,博物学の傾向が強い本草書である。…
…その後も盛んに中国から本草学が導入されたが,漢籍を日本風に理解したのと呼応して,植物学でも,中国で記述された種を日本風に解釈するにとどまっていた。やっと18世紀になって,貝原益軒の《大和本草》(1709)や稲生若水の《庶物類纂》(未完),小野蘭山《本草綱目啓蒙》(1806)などによって日本風の本草学が集成されていった。江戸時代末にはC.P.ツンベリーやP.F.vonシーボルトなどを介して西洋本草学の影響が及び飯沼慾斎《草木図説》(1852),岩崎灌園《本草図譜》(1828)などが出版され,日本の植物についての高い知見が示されていった。…
※「庶物類纂」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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