稲生若水(読み)イノウジャクスイ

デジタル大辞泉 「稲生若水」の意味・読み・例文・類語

いのう‐じゃくすい〔いなふ‐〕【稲生若水】

[1655~1715]江戸中期の本草ほんぞう学者。江戸の人。名は宣義。福山徳潤師事し、のち加賀藩主に仕えた。博物学先駆者。著「庶物類纂」など。

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精選版 日本国語大辞典 「稲生若水」の意味・読み・例文・類語

いのう‐じゃくすい【稲生若水】

  1. 江戸中期の本草学者。通称正助。名は義。字は宣義・彰信。若水は号。恒軒の子。江戸の人。福山徳順に本草学、伊藤仁斎に儒学を学び、加賀藩主前田綱紀に仕える。著「庶物類纂(るいさん)」「本草図彙」など。明暦元~正徳五年(一六五五‐一七一五

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「稲生若水」の意味・わかりやすい解説

稲生若水
いのうじゃくすい
(1655―1715)

江戸中期の本草(ほんぞう)学者。名は宣義(のぶよし)。江戸に生まれ大坂に移る。儒学を伊藤仁斎(いとうじんさい)に学び、父恒軒(こうけん)(1610―1680)の医業を継いだ。本草を福山徳順(ふくやまとくじゅん)(生没年不詳。徳潤とも記される)に師事、「薬物は国産のもの、中国書にあるもの千二百余種を精査した者は古今を通じて余一人」と学殖を示した。1693年(元禄6)儒者として加賀藩主前田綱紀(まえだつなのり)に禄(ろく)200俵で抱えられ、以後『庶物類纂(しょぶつるいさん)』(博物大全)の編纂に20年間精力を傾注、362巻までを脱稿して正徳(しょうとく)5年京都に病没した。綱紀は若水の偉業をたたえ、学問を奨励する8代将軍徳川吉宗(とくがわよしむね)に本書を献じた。ほかに、和刻本中もっとも信が置けるという『校正本草綱目』53巻、薬物の選品を論じた『炮炙全書(ほうしゃぜんしょ)』『物産目録』など。丹羽正伯(にわしょうはく)、野呂元丈(のろげんじょう)、松岡恕庵(まつおかじょあん)は門人で、正伯は『庶物類纂』を1000巻に増補した。

[根本曽代子]

『『庶物類纂』全11巻(科学書院・1987~1991)』

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改訂新版 世界大百科事典 「稲生若水」の意味・わかりやすい解説

稲生若水 (いのうじゃくすい)
生没年:1655-1715(明暦1-正徳5)

江戸中期の本草家。名は宣義,字は彰信,号は若水,通称は正助,のちにみずから稲若水(とうじやくすい)と改名。儒医稲生恒軒を父として江戸に生まれる。1693年(元禄6)加賀藩主前田綱紀に儒者,本草家として召し出された。《庶物類纂》1000巻の編述を志し,綱紀の後援のもとに作業をはじめ,362巻を完成しただけで死去した。これは中国文献にある動植物の記事を集録したもので,名物学,博物学の傾向が強い本草書である。その後,将軍徳川吉宗の命令で若水の弟子たちが692巻を補い1054巻となった。膨大な書物であるうえ,官庫に収められたこともあって,利用されることは少なかったが,若水の名物学的・博物学的研究態度は後進に影響を与えた。
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山川 日本史小辞典 改訂新版 「稲生若水」の解説

稲生若水
いのうじゃくすい

1655~1715.7.6

稲(とう)若水とも。江戸中期の本草家。名は宣義,字は彰信,通称正助。山城国淀藩永井氏の儒医稲生恒軒の子。江戸生れ。父に医学を,福山徳順に本草学を学ぶ。主家除封のため流浪して京都に移り,1693年(元禄6)加賀国金沢藩主前田綱紀に儒者役として仕え,その命により「庶物類纂」の編纂を行うが,未完のまま病没。その間,隔年詰の出仕が許されたため,金沢にいるとき以外は京都に開塾して本草学を講義。門人に松岡恕庵(じょあん)・野呂元丈(げんじょう)・丹羽正伯(にわしょうはく)・内山覚仲(かくちゅう)ら著名な本草家がおり,本草学の発展に大きく貢献した。著書「庶物類纂」前編362巻,「炮炙(ほうせき)全書」「食物伝信纂」。

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百科事典マイペディア 「稲生若水」の意味・わかりやすい解説

稲生若水【いのうじゃくすい】

江戸時代の本草学者。江戸生れ。名は宣義。1693年加賀藩主前田綱紀(つなのり)に仕え,稲(とう)若水と称す。中国の典籍中の動植物の記事を調べ,実物とも照らして,それらの知識を集大成した《庶物類纂(しょぶつるいさん)》を著した。また,松岡恕庵,野呂元丈,丹羽正伯ら多くの弟子を育てた。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「稲生若水」の意味・わかりやすい解説

稲生若水
いのうじゃくすい

[生]明暦1(1655).江戸
[没]正徳5(1715).7.6. 京都
江戸時代中期の本草学者。字は彰信,通称正助,名は宣義,のちに若水と称す。医学を父恒軒に学び,本草を福山徳順に学んだ。元禄6 (1693) 年,金沢藩に儒者役として召出され,『庶物類纂』の編纂を命じられた。同書は 362巻で未刊に終ったが,のちに丹羽正伯が引受け,1000巻とした。著書はほかに『食物伝信纂』『炮灸全書』『詩経小識』『本草綱目新校正』などがある。また父の著『螽斯草』 (産婦心得書) に序をつけて元禄3 (90) 年に刊行した。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「稲生若水」の解説

稲生若水 いのう-じゃくすい

1655-1715 江戸時代前期-中期の本草家。
明暦元年生まれ。稲生恒軒・春子の長男。儒学を木下順庵に,医学を父と福山徳潤にまなぶ。元禄(げんろく)6年(1693)加賀金沢藩主前田綱紀(つなのり)につかえ,稲(とう)と改姓。「庶物類纂(しょぶつるいさん)」1000巻の編集をはじめて,362巻まで完成させた。正徳(しょうとく)5年7月6日死去。61歳。江戸出身。名は宣義(のぶよし)。字(あざな)は彰信。通称は正助。編著に「炮炙(ほうしゃ)全書」,著作に「詩経小識」など。

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旺文社日本史事典 三訂版 「稲生若水」の解説

稲生若水
いのうじゃくすい

1655〜1715
江戸中期の本草学者
江戸の人。医学・本草学(薬草学)を学び,また伊藤仁斎に儒学を学んだ。実地調査により日本の薬草を研究。1693年加賀藩主前田綱紀に仕え,その援助により『庶物類纂 (しよぶつるいさん) 』の編纂に従事したが,業なかばで没した。

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367日誕生日大事典 「稲生若水」の解説

稲生若水 (いのうじゃくすい)

生年月日:1655年7月27日
江戸時代中期の本草学者
1715年没

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世界大百科事典(旧版)内の稲生若水の言及

【本草学】より

…その後も盛んに中国から本草学が導入されたが,漢籍を日本風に理解したのと呼応して,植物学でも,中国で記述された種を日本風に解釈するにとどまっていた。やっと18世紀になって,貝原益軒の《大和本草》(1709)や稲生若水の《庶物類纂》(未完),小野蘭山《本草綱目啓蒙》(1806)などによって日本風の本草学が集成されていった。江戸時代末にはC.P.ツンベリーやP.F.vonシーボルトなどを介して西洋本草学の影響が及び飯沼慾斎《草木図説》(1852),岩崎灌園《本草図譜》(1828)などが出版され,日本の植物についての高い知見が示されていった。…

※「稲生若水」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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