鎌倉中期の臨済宗の僧。字は円爾(えんに)。諡(おくりな)は聖一(しよういち)国師。駿河国(静岡県)の人。5歳で久能山の尭弁(ぎようべん)について《俱舎頌(くしやじゆ)》を学び,18歳のとき園城(おんじよう)寺(三井寺)に赴いて天台密教を修め,ついで東大寺に登壇受戒した。一方,上野(こうずけ)長楽寺の栄朝,鎌倉寿福寺の行勇に参じ,黄竜(おうりよう)派の臨済禅をも学んだ。1235年(嘉禎1)入宋し,天童山の癡絶道冲(ちぜつどうちゆう)ら各山の禅匠を歴参したのち,径山(きんざん)の無準師範(ぶしゆんしばん)に随従し,彼の法を継いだ。41年(仁治2)帰国し,大宰府横岳の崇福(そうふく)寺,博多の承天(じようてん)寺などを開き,北九州に禅宗を宣揚した。43年(寛元1)関白九条道家の招請を受けて上京し,東山の東福寺の開山となった。東福寺が禅・天台・真言3宗の兼修道場であったごとく,弁円の禅風も天台密教と無準から継承した揚岐派の臨済禅との教禅兼修的ではあったが,栄西の禅風を一歩すすめ,禅を基調とする立場を鮮明にしている点に特色がある。彼の門下には旧仏教を学んだ者が多く集まり,その中から東山湛照(たんしよう),蔵山順空,白雲慧暁(えぎよう),無関普門,無住道暁など,多数の禅傑を輩出して聖一派を形成し,日本の臨済禅の発展に大きく貢献した。弁円は寂後,1311年(応長1)花園天皇から聖一国師の勅諡号(ちよくしごう)を受けたが,これは日本における国師号の嚆矢(こうし)である。彼が請来した多くの典籍は東福寺山内の普門院に所蔵され,五山文化発展に寄与した。著作に《聖一国師語録》がある。
執筆者:藤岡 大拙
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…山号は横岳山。1241年(仁治2)随乗房湛慧が大宰府横岳に建立し円爾弁円を開山とした。43年(寛元1)官寺に列せられ,71年(文永8)南浦紹明も入寺し,80年(弘安3)には東福寺下に属した。…
…山号は恵日山(えにちさん)。開基は九条道家,開山は円爾弁円(えんにべんえん)(聖一(しよういち)国師)。京都五山の一つ。…
…ちょうどそのころから日本の禅僧が相次いで入宋,入元し,参禅修行の証拠とするために諸師の書を競って持ち帰ったが,それらを中国での用法にならって誰々の墨跡と呼んでいるうちに,墨跡という言葉は,禅林における書だけをさすようになった。墨跡の語が日本でいちばん早く使われた例としては,京都東福寺の開山,円爾弁円(聖一国師)が1241年(仁治2)帰朝のとき将来した儒仏道3教の典籍目録をあげることができる。同目録中に,〈古人墨跡等〉と見えている。…
… 日本に初めて本格的な臨済禅をもたらした栄西は,虚庵懐敞(こあんえじよう)に嗣法して黄竜派の臨済禅をもち帰った。しかし,円爾弁円(えんにべんえん)(弁円)などその後の入宋僧の多くは,破庵派の無準師範(ぶしゆんしばん)の法系に連なっている。また,宋からの渡来禅僧も密庵の法系が多かったから,総じて日本に流入した臨済宗は,楊岐派,なかでも密庵系であったということができる。…
※「弁円」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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