普門院(読み)ふもんいん

日本歴史地名大系 「普門院」の解説

普門院
ふもんいん

[現在地名]大宮市大成町

鴻沼こうぬま排水路東岸の大宮台地緩傾斜地にある。大成山と号し、曹洞宗。本尊は釈迦如来。「風土記稿」は本尊を恵心作の正観音と記し、境内地は開基家である金子氏の館跡とする。近年まで館跡の一部や空堀などが残っていた(現在は大成中学校校地)。応永三三年(一四二六)月江正文が開山となって建立、開基は金子駿河守。駿河守の法名は普門院殿幻公庵寿居士とされているが(風土記稿)、後世に改変されたものと考えられ、おそらく幻公庵主(元禄一六年「常恒結制願書」普門院文書)であろうといわれている。

普門院
ふもんいん

[現在地名]松江市北田町

北田きたた町西端に位置し、三方を堀に囲まれる。松高山と号し、天台宗。本尊は不動明王。近世初期、松江城主堀尾吉晴が西川津にしかわつ市成いちなり豊国ほうこく神社を造営精舎として松江山願応がんのう寺を建て、清水きよみず(現安来市)大宝たいほう坊院主賢清を開基とし、三〇〇石を与えた。元和元年(一六一五)大坂夏の陣で豊臣家が滅亡、豊国神社は廃せられ寺領も没収され、賢清は清水寺に帰ろうとしたが堀尾忠晴がこれを惜しみ、てら町の天台宗願応寺(現在の明宗寺などの所在地)寺地として普門院と改称し、祈願所として三〇石を寄進した。

普門院
ふもんいん

[現在地名]赤坂町山口

山口やまぐち川上流のもりあげ山中腹にある。真言宗御室派、幡降山と号し、寺号は極楽ごくらく寺、本尊十一面千手観音。暦応年中(一三三八―四二)の創建といい(備陽国誌)、永禄一二年(一五六九)伊田いた(現御津郡御津町)から移転したと伝える。本堂には永禄五年、同一二年の書付がある。前者は難波三郎右衛門尉職経が「現世安穏後生善処也」と願った書付で、本堂の瓦のうちには天正六年(一五七八)銘のものがある。本尊は同二一年京都一条室いちじようむろ(現京都市上京区)の仏師久家作。文禄四年(一五九五)の備前国四拾八ヶ寺領并国中大社領目録写(金山寺文書)では幡寺山として宇喜多秀家に寺領二〇石を認められている。

普門院
ふもんいん

[現在地名]海上町蛇園

仲才なかさいにある。真言宗智山派で、稲荷山金剛寺と号する。本尊は十一面観音。応永期(一三九四―一四二八)倉橋くらはし村内の川野いかかわのより移ったと伝える。慶長五年(一六〇〇)当時の住職は成賀で(福蔵寺縁起)、元和九年(一六二三)本尊の宮殿が再造され、その板書銘に長光寺普門院とある。寛永四年(一六二七)の蛇園村検地帳(蛇園区有文書)では普門院として田畑を名請しており、同一〇年の関東真言宗新義本末寺帳には山城醍醐寺三宝さんぼう院末としてみえる。

普門院
ふもんいん

[現在地名]弘前市西茂森町二丁目

西茂森にししげもり町禅林街三十三ヵ寺の一つ。蘭庭らんてい院裏の墓地後方、南の丘陵部に位置する。茂森新しげもりしん町の西北部後方にあたる。観音山と号し、曹洞宗。本尊は聖観音菩薩。もと蘭庭院末院。通称山観やまかん

創立年代・開基・開山ともに不詳。弘前城南方茂森山の削平および長勝寺構ちようしようじがまえ取立に際し、茂森山にあった観音堂を現在地に移したのが始まりといわれる。延宝六年(一六七八)四代藩主津軽信政が再建し、開基を蘭庭院八代在秀としたと伝える。正徳元年(一七一一)の寺社領分限帳(市立弘前図書館蔵)には普門庵とあり、庵寺であったと思われる。

普門院
ふもんいん

[現在地名]高野町高野山

無量光むりようこう院の南に位置する別格本山で、本尊は大日如来。古くは学侶方の一院。開基は空海剃髪の師で南都の学僧であった石淵勤操と伝える。当初谷上院たにがみいん谷にあったが、元禄年中(一六八八―一七〇四)の行人方と学侶方の騒乱後、千手院せんじゆいん谷の見樹けんじゆ院旧跡の現在地に移った。旧本尊は慶長年中(一五九六―一六一五)本尊が焼失した勧学かんがく院に住職快恵が寄進。現本尊は正保五年(一六四八)釈迦文しやかもん院宝塔の本尊を請うて安置したものである。

普門院
ふもんいん

[現在地名]潮来町延方

延方のぶかたの東南、北浦を望む地にある。真言宗豊山派、竜雲山と号し、本尊は地蔵菩薩開基帳(彰考館蔵)板久いたく村の項に「普門院、除七石、寺応安三庚戌年建立より当卯年迄三百弐拾年、此寺古上戸村小野詰ニ有之候所(中略)庄厳寺ト名ケ、依諸人参詣ニ普門院ト申候、末寺弐ケ寺、門徒三拾壱ケ寺、百姓旦那六百五拾人」とあり、応安三年(一三七〇)上戸わど(現牛堀町)尾之詰おのづめに創建され、後に板久村に移建されたという。

普門院
ふもんいん

[現在地名]平群町大字福貴

北福貴きたふき垣内に所在。道詮が開いた福貴寺の塔頭であったと伝える。現在は無住で小堂を残すのみ。聖徳宗。本尊木造聖観音立像(平安時代)は国指定重要文化財。福貴寺は保延三年(一一三七)の東大寺花厳会床饗免田注文案(狩野亨吉収集文書)に「中条(内平群)三里廿五坪五段之内三段下土田、一段号福貴寺対捍也」とみえ、普門院はその一院であった。

普門院
ふもんいん

[現在地名]米沢市関根

羽黒はぐろ川が山地から平地に出たところにある。岩上山と号し、真言宗智山派。本尊大日如来。明治初年の神仏分離まで、南に隣接する羽黒堂の別当寺であった。羽黒堂は板谷いたや街道に沿い、置賜おきたま三十三札所の一で、札所めぐりの人々や板谷街道を通る商人などの旅宿が羽黒堂付近に四、五軒あったという。寛政八年(一七九六)上杉治憲は、師と仰いだ江戸の儒者細井平洲が板谷峠越で米沢に至る途上を羽黒堂・普門院まで出迎えている。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「普門院」の意味・わかりやすい解説

普門院
ふもんいん

和歌山県高野町にある高野山の山内寺院の1つで,高野山真言宗の別格本山。空海の師勤操 (ごんぞう) の開基と伝えられ,江戸時代に現在地に移った。寺宝の絹本着色『勤操僧正像』は,空海作と伝えられる平安時代の作品で,国宝。

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事典・日本の観光資源 「普門院」の解説

普門院

(福岡県朝倉市)
福岡県文化百選 名勝・景観編」指定の観光名所。

普門院

(東京都北区)
〔東京都〕北区景観百選」指定の観光名所。

出典 日外アソシエーツ「事典・日本の観光資源」事典・日本の観光資源について 情報

デジタル大辞泉プラス 「普門院」の解説

普門院

福岡県朝倉市にある真言宗の寺院。747年創建と伝わる。鎌倉時代後期に建てられた本堂は国の重要文化財に指定されている。

出典 小学館デジタル大辞泉プラスについて 情報

世界大百科事典(旧版)内の普門院の言及

【杷木[町]】より

…米作のほか,富有柿,ブドウなどの果樹栽培を営み,シイタケ,木材,竹製品も産する。志波(しわ)の円清寺は黒田如水ゆかりの寺で,高麗時代の朝鮮鐘(重要文化財)を伝え,普門院には鎌倉時代末期の遺構とされる本堂(重要文化財),藤原時代の木造十一面観音像(重要文化財)がある。また杷木神籠石(こうごいし)(史)が残る。…

※「普門院」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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