引地村(読み)ひきちむら

日本歴史地名大系 「引地村」の解説

引地村
ひきちむら

[現在地名]吾川村引地・橘谷たちばなだに二子野ふたごの遅越おそごえさきやま大平おおひら名野川なのかわ

相能あいのう村のほぼ西に位置し、仁淀によど川の北岸にあたる。七集落からなるが散在する。かわ村の枝村。

天正一八年(一五九〇)の菜川地検帳には二小野村二五筆、引地ノ村二三筆、崎山村七筆、ヲソコヘ村四二筆、太ヒラ村一二筆、川渡村二七筆、橘谷村一〇筆、名ノ川戸ノ村五筆が記される。二小野村には四筆の居屋敷があり、多くの扣地をもつ神左衛門の屋敷は三反四四代二歩と大きい。引地ノ村は切畑が多く屋敷はなく、遅越村には一一の居屋敷が記される。うち三反三一代二歩の助左衛門屋敷が大きいが、耕地には切畑が多い。他は崎山村一、太ヒラ村三、川渡村二、橘谷村一の居屋敷が記されるが、川渡村の左馬允は三反一二代五歩の屋敷地をもち、付近には多くの扣・作がある。


引地村
ひきちむら

[現在地名]松山町引地

竹田たけだ村の北にあり、西は丘陵地、東は藤里ふじさと川を境に土淵つちぶち村。丘陵地の横根よこね山南斜面に縄文後期の集落跡があり、土器石器が出土。戦国末期、上茗荷沢かみみようがさわ村・下茗荷沢村などとともに田尻たじり館主安保次郎の所領であった(「遠田肥前覚書」飽海郡誌)

元和八年(一六二二)の酒井氏知行目録では高九七石余。同一〇年の検地帳(引地区有文書)によれば、案内者は肝煎九助と彦七、名請人は一四、うち居村一〇・入作四で、入作は中棚なかたな一・田尻三。


引地村
ひきじむら

[現在地名]鳳来町豊岡とよおか

三輪みわ川の右岸大峠おおとうげ村の北東に接する。村が南に傾斜して突出した地形が目立つ。集落の西端から北に向かって登るのが鳳来寺ほうらいじ道、南に向かい大野おおの村に出るのを秋葉あきば道、大野村へは桐谷きりやの橋を渡った。今の東海自然歩道で、橋は吊橋になった。鳳来寺道には一丁目ごとに道標が立ち、現在、一丁目に「是ヨリ三十六丁」と刻まれているのは寛政八年(一七九六)建立である。


引地村
ひきじむら

[現在地名]東郷町引地

小鹿谷おしかだに村の西、東郷池の南岸に位置し、西は野花のきよう村。倉吉往来が通る。拝領高二四六石余。隠岐氏の給地があった(給人所付帳)。宝暦三年(一七五三)頃の河村郡村々明細帳(近藤家文書)によると朱高二六八石余、高三二四石余、うち畑高二八石余。免五ツ七分。給人として隠岐氏のほか中村氏を記載。悪田加損米七石。池役米二石・藪役銀三匁二分。


引地村
ひきじむら

[現在地名]綾部市睦合むつあい町 引地

小田おだ村の東、若狭街道沿いに位置する。真野まの小田村とともに園部藩領の飛地であった。

村内に善福ぜんぷく(高野山真言宗)がある。「丹波志」には「本堂五間四面、郡三十三番札所、観音行基作、古ヘ七堂伽藍ノ地寺領二百石ト云」とあり、棟札には「大永中七年丁亥十一月十一日為寇火成烏有俗号赤井乱」と記されている。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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