中国,唐代の宰相。字は子寿または博物。韶州(広東省)曲江県に生まれ,曲江先生と称せられた。玄宗朝の文人宰相張説(ちようえつ)に認められ,進士科に挙げられ中書舎人となり,734年(開元22)には中書令に移り嶺南出身者としては初めて宰相となった。当時の政界は門閥貴族出身者と科挙出身者との間に確執があり,前者を代表する李林甫が前後して宰相となったため,後者を代表する張九齢とことごとに対立し,736年ついに張九齢は荆州大都督府長史へ左遷され,のち故郷へ帰りまもなく病没した。1961年その墓の発掘報告が行われた。宋の胡寅は太宗朝の房玄齢,杜如晦に比肩するとし,明の丘濬(きゆうしゆん)も唐代第一流の人物と激賞するが,やや実務に欠け理想家肌のところがあった。《張曲江先生文集》20巻のほか《千秋金鏡録》5巻があり,文人としても名をはせている。第9回遣唐使,多治比広成がもたらした玄宗の〈日本国王に勅するの書〉は彼の起草になる。
執筆者:藤善 真澄
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
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中国、盛唐の名相。韶州(しょうしゅう)曲江(広東(カントン))の人。字(あざな)は子寿(しじゅ)、一名、博物。文才に富み25歳で進士、文人宰相張説(ちょうえつ)に重んぜられ栄進。左拾遺のとき、玄宗帝の誕生日に諸臣が宝鑑(ほうかん)(鏡)を献じた際、彼は『千秋金鑑録』と題する勧戒十章を奉り諫官(かんかん)の誠意を示した。733年中書侍郎同中書門下平章事、翌年張説にかわって中書令に進み、曲江県男に封ぜられた。朝廷では硬骨漢として聞こえ、宗室の李林甫(りりんぽ)や軍人牛仙客の登用に反対し、帝をいさめたが聞き入れられず、のち李林甫の発言力が増すとにらまれて左遷された。彼は古典風の詩文に優れ、文集20巻を伝え、その詩「感遇(かんぐう)」は『唐詩選』に収められ人口に膾炙(かいしゃ)している。
[池田 温]
…〈口に蜜あり,腹に剣あり〉とその奸佞(かんねい)ぶりを評されるが,学問,教養は乏しかったものの機を見るに敏かつ実務に優れた能吏であり,玄宗の信任を深めた。このため学者肌の張九齢らとあわず,陥穽(かんせい)をめぐらせて張九齢を追い,みずからがかわって中書令として実権を握った。この争いには,貴族出身官僚と科挙出身官僚との対立が背景にあったともいわれる。…
※「張九齢」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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