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張瑞図

美術人名辞典の解説

張瑞図

明末の進士書画家。福建晋江の人。字は長公、号は二水・白毫菴主・果亭山人。天啓年中に権勢を振った中宦魏忠賢のもとで入閣、中極殿大学士兼吏部尚書に至るが、失脚後は郷里隠棲した。行草書に優れ、独自の書風をつくりあげて邢侗・米万鐘・董其昌とともに「邢張米董」と称された。また画は黄公望を学んで山水を能くした。崇禎14年(1641)歿、71才。

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百科事典マイペディアの解説

張瑞図【ちょうずいと】

中国,明代の書家,画家。福建省の人。字は長公,号は二水。高官に登ったが,宦官(かんがん)との結託が災いして失脚,郷里に隠棲(いんせい)した。書画ともに個性の強い作風。

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世界大百科事典 第2版の解説

ちょうずいと【張瑞図 Zhāng Ruì tú】

1570‐1641
中国,明末の文人画家,書家。字は長公,号は二水,白毫菴主,果亭山人。福建省晋江の人。万暦35年(1607)殿試第三をもって進士に登第し,宦官魏忠賢により1626年(天啓6)礼部尚書東閣大学士に至り,機務にあずかった。毅宗が即位して魏忠賢が誅されると,28年(崇禎1)致仕して故郷に帰ったが,翌年民に落とされた。その書画は共にきわめて個性的で力強い様式を示し,ことにその書は同時代邢侗,米万鐘,董其昌(とうきしよう)と並び称された。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

張瑞図
ちょうずいと
Zhang Rui-tu

[生]隆慶4(1570)
[没]崇禎14(1641)
中国,明末の文人画家,書家。泉州 (福建省) の出身。字は長公,号は二水,白毫庵主。殿試第3席からついに中極殿大学士に昇進したが,魏忠賢の罪に連座して失脚。水墨山水画や羅漢画を得意とした。書家としては明末四大家の一人で鋭い奔放な筆致をもつ。その書画は日本にも伝来し大きな影響を与えた。代表作『山水図』 (静嘉堂) 。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

張瑞図
ちょうずいと
(1570―1644ころ)

中国、明(みん)末の書家、画家。米万鐘(べいばんしょう)、董其昌(とうきしょう)(けいどう)とともに明末の書の四大家の1人。字(あざな)は長公、号は二水、白毫菴(はくごうあん)など。福建省晋江県の人で、1607年(万暦35)に進士となり、殿試(進士の登用試験)で第三番となったので、翰林院(かんりんいん)編修から礼部尚書に至り、天啓年間には武英殿大学士にまで上り、行政の枢要な地位についたが、派閥の対立のなかで失脚し罷免され、余生を詩書画の生活に送った。熱情的な草書を書き、画(え)にも優れ、その山水画は黄公望(こうこうぼう)の画風を学んで、蒼勁(そうけい)の趣(おもむき)がある。中国ではその経歴のため人物、作品ともに軽視したが、日本では彼の書画を好む者多く、舶載されて称賛された。田能村竹田(たのむらちくでん)も『山中人饒舌(じょうぜつ)』中でその墨竹をたたえ、弟の潜夫が母を連れて日本にきたという伝えも載せて、彼の人生に同情を寄せている。[星山晋也]

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