改訂新版 世界大百科事典 「後藤基次」の意味・わかりやすい解説
後藤基次 (ごとうもとつぐ)
生没年:1560-1615(永禄3-元和1)
織豊政権期の武将。通称又兵衛。氏房,政次ともいう。播磨三木城主別所氏に仕えた新左衛門の子。豊前黒田氏に養われ,孝高・長政父子に仕えた。長政に従って豊臣秀吉の九州征伐,文禄・慶長の役に従軍,関ヶ原の戦にも戦功をあげる。1600年(慶長5)長政筑前移封のとき,大隈城主となる。その後,長政に疎まれ,06年黒田家を出奔,細川忠興や池田輝政のもとに流寓。藤堂高虎より出仕の誘いを受けたが辞したという。また徳川家康家臣の成瀬正成らからなされた長政への帰参斡旋にも応ぜず,14年豊臣秀頼挙兵に応じ大坂入城,木村重成らとともに鴫野に佐竹義宣の軍を破る。翌年大坂夏の陣でも籠城,家康が播磨一国を与えて誘引しようとしたが,拒絶したと言われる。平野に関東勢を撃つなど,真田幸村らとともに奮戦したが,5月6日,松平忠明,伊達政宗らの軍に敗れ,片山道明寺で戦死。
執筆者:加藤 真理子
伝承と作品化
徳川治政下では,幕府成立事情に関する出版・上演などは禁じられていたが,《難波(なにわ)戦記》《大坂軍記》(大坂軍記物)などの実録本や講釈などで,非公然に享受されていた。後藤又兵衛の大坂城入りやその奮戦ぶりは,私利に動かぬ豪快な行為として江戸期庶民の目に映じ,さまざまに尾ひれがついて快男子又兵衛像にふくらんだ。朝鮮の役でトラ退治のおり,いわゆる〈日本号の槍〉を代償に母里(もり)太兵衛の命を救った話や,黒田家から奉公構いを受けた際の言動などは,多く講釈による虚構と見られる。浄瑠璃,歌舞伎では又兵衛を登場させるについて仮名を用い,《義経新高館(しんたかだち)》には片岡八郎,《南蛮鉄後藤目貫(めぬき)》とその改作《義経新含状(しんふくみじよう)》《義経腰越状》には後藤文次,また五斗兵衛の名が用いられ,さらに《近江源氏先陣館》《鎌倉三代記》《日本賢女鑑(けんじよのかがみ)》などでは和田兵衛秀盛,《八陣守護城(はちじんしゆごのほんじよう)》では児島政次の名で,知勇兼備の軍師として描かれている。明治以降,実名が解禁され,《茶臼山凱歌陣立(がいかのじんだて)》(河竹黙阿弥作,1880年新富座初演)などに又兵衛が登場,また又兵衛を主人公とした小説には,大仏次郎《乞食大将》(1945)がある。なお立川文庫系の講談本が虚構化に果たした役割も大きい。
執筆者:小池 章太郎
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報