後藤牧太(読み)ごとうまきた

日本大百科全書(ニッポニカ) 「後藤牧太」の意味・わかりやすい解説

後藤牧太
ごとうまきた
(1853―1930)

明治大正理科教育指導者。三河(愛知県)の生まれ。慶応義塾に入り、福沢諭吉の教えを受け、1876年(明治9)東京師範学校(のち東京高等師範学校)の中学師範科の創設に参画以後、同校の教授となり、1914年(大正3)まで在職名誉教授となった。理化学教育では実験重視すべきことを主張し、簡易な実験装置をくふう、指導し『簡易器械理化学試験法』や『小学校生徒用物理書』などを著し、その普及に尽くした。またローマ字運動の熱心な唱導者としても知られている。

[菊池俊彦]

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20世紀日本人名事典 「後藤牧太」の解説

後藤 牧太
ゴトウ マキタ

明治・大正期の理科教育者 東京師範名誉教授。



生年
嘉永6年(1853年)

没年
昭和5(1930)年3月25日

出生地
三河国(愛知県)

学歴〔年〕
慶応義塾卒

経歴
福沢諭吉の教えを受け、慶応義塾教員となる。明治9年東京師範(のち東京高等師範)の中学師範科の創設に参画、以後同校の教授となり、大正3年まで在職、のち名誉教授。ヨーロッパの理科教育を視察し、実験を重視すべきことを主張、簡易な実験装置の考案製作を指導した。またローマ字運動の提唱者としても知られる。著書に「小学生徒用物理書」「簡易器械理化学実験法」などがある。

出典 日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」(2004年刊)20世紀日本人名事典について 情報

改訂新版 世界大百科事典 「後藤牧太」の意味・わかりやすい解説

後藤牧太 (ごとうまきた)
生没年:1853-1930(嘉永6-昭和5)

日本の理科教育の先駆者。三河の医家に生まれ,慶応義塾で学ぶ。母校教鞭をとった後,1877年東京師範学校の教師,ついで東京高等師範学校教授となった。三宅米吉と《簡易器械理化学試験法》(1885)を書き,やさしい実験器械の作製や紹介に努めた。また4人の共著で《小学校生徒用物理書》(1885)という教科書も作った。イギリスやスウェーデンへ留学し,物理のほかに手工科教授法開発に力を注ぎ,ながく国定の小学校理科教科書編纂にもあたった。
執筆者:

出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「後藤牧太」の解説

後藤牧太 ごとう-まきた

1853-1930 明治-大正時代の教育者。
嘉永(かえい)6年10月5日生まれ。慶応義塾にまなび,明治10年から東京師範(のち東京高師)でおしえ,のち教授。ヨーロッパの理科教育を視察し,実験を重視。簡易な実験装置を考案し,製作を指導。ローマ字論者でもあった。昭和5年3月25日死去。78歳。三河(愛知県)出身。著作に「簡易器械理化学試験法」「小学校生徒用物理書」。

出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例

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