復員引揚問題(読み)ふくいんひきあげもんだい

日本大百科全書(ニッポニカ) 「復員引揚問題」の意味・わかりやすい解説

復員引揚問題
ふくいんひきあげもんだい

第二次世界大戦後の海外在留の日本軍人軍属および一般日本人の帰還問題、とくに旧ソ連・中国本土地域からの引揚げが遷延した問題をさす。

 まず復員であるが、厚生省(現厚生労働省)の調べでは敗戦時の旧陸海軍軍人・軍属の総兵力は陸軍が約550万、海軍が約242万であり、このうち内地部隊は陸軍が約250万、海軍が200万弱とされる。内地部隊の復員は、陸軍が1945年(昭和20)10月までにほぼ完了し、海軍は45年8月末日までに8割が帰郷した。また外地部隊の復員はアメリカ軍管理地域から始まり、中国軍、オーストラリア軍、イギリス軍の各管理地域へと順次実施され、48年1月までにいちおう完了した。イギリス軍管理地域では主力部隊送還後も13万2000人が作業部隊として約1年間残留させられた。

 敗戦直後、海外に残留していた軍人・軍属および一般日本人は660余万に上り、軍人・軍属と一般人との内訳はそれぞれ半数ずつであったが、送還は軍人・軍属が優先された。引揚げ者数は1946年末までに500万人以上に達しピークを越した。47年にはさらに74万人余が引き揚げた。この時点で密出国などを加えればその実数は600万人以上と推定されている。引揚げが遷延した地域は旧ソ連・中国であるが、サンフランシスコ講和で両国条約を締結せず国交を回復しなかったので、その後も政府間交渉は困難を極めた。

 ソ連占領地域の満州(中国東北)、北朝鮮、千島樺太(からふと)(サハリン)では関東軍の軍人・軍属と「満州国」官吏を中心に約57万5000人がソ連本土に移送され労働を強制された。日本当局の推算ではソ連地域の日本人在留者数は272万7000人とされていた。引揚げが開始されたのは他の地域がほぼ完了した1946年12月の米ソ協定後であったが、送還は遅々として進まなかった。49年に日本で送還遅延が政治問題化し留守家族全国協議会は引揚げ促進の全国大会を開催し、国会も年内完了を決議した。50年4月タス通信は送還完了を発表した。日本当局は約37万人が未送還にあるとして国連に提訴した。53年12月、国際赤十字社の働きで送還が再開され、また56年、日ソ国交回復で「総ざらい引揚げ」が行われた。

 中国からは1946年末までに300余万人、48年までに4万5000人が引き揚げたが、中国内戦の影響と中華人民共和国成立で中断し、その後も朝鮮戦争勃発(ぼっぱつ)で引揚げは空白状況を続けた。中国からの呼びかけで日本赤十字社と中国紅十字社が53年2月「共同コミュニケ」を発表、55年には政府間直接交渉も開始され、53年から58年までに21回にわたって延べ3万5000人弱が引き揚げた。

 集団引揚げは1958年で終わり、以後個別引揚げの段階に入った。とくに72年の日中国交正常化以後、敗戦の混乱のなかで中国に取り残された日本人残留孤児の調査および帰国は、戦後の社会問題となった。

[荒 敬]

『厚生省援護局編『引揚げと援護三十年の歩み』(1978・ぎょうせい)』『松岡英夫編『ジャーナリストの証言昭和の戦争7 引揚げ』(1986・講談社)』『若槻泰雄著『戦後引揚げの記録』(1995・時事通信社)』『中谷和男著『いのちの朝――ある母の引揚げの記憶』(1995・ティビーエス・ブリタニカ)』『木村清紹著『アルゼンチンからの手紙――満州引揚げ者の手記と手紙より』(1996・麦秋社)』『厚生省社会・援護局援護50年史編集委員会監修『援護50年史』(1997・ぎょうせい)』『埼玉県平和資料館編・刊『特別企画展 終戦と引揚げ』(1997)』『若槻泰雄著『世界人権問題叢書 シベリア捕虜収容所』(1999・明石書店)』

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