忍藩 (おしはん)
武蔵国埼玉郡忍に藩庁を置いた譜代中藩。戦国末期,成田長泰・氏長の居城であったが1590年(天正18)豊臣秀吉の関東攻略により落城。同年8月徳川家康は深溝(ふこうず)松平家忠を利根川沿岸諸村1万石の地に配置した。家忠は伊奈熊蔵らの検地をうけた後,領地の経営にあたったが92年(文禄1)下総国上代(かじろ)に転じ,同年東条松平忠吉が10万石で入封し,成田氏旧臣などを加え家臣団を強化した。また95年利根川の流路変更の大工事を達成し,耕地の拡大に成功した。1600年(慶長5)関ヶ原の戦後の知行替により忠吉が尾張へ転封すると,その後忍城は,武蔵国深谷城主酒井忠勝が忍城周辺2万石を領知した1626年(寛永3)3月より1年9ヵ月の期間を除き,30年間にわたり番城となり,城番が置かれた。この間慶長の忍領総検地が幕府代官によって施行され地方(じかた)支配が進展する。33年代官で忍城番も務めた大河内久綱の子で老中の松平信綱が3万石で入封し民政の充実に尽くした。信綱は39年島原の乱鎮圧の功により6万石で川越城に転じ,同年老中阿部忠秋が下野国壬生(みぶ)城から5万石で入封,家光・家綱に仕えて加増され8万石となった。71年(寛文11)養子正能は実父の遺領1万石を上総国で加増され9万石を領し老中も務めた。次の正武は弟3名に1万石を分与し8万石となったが,その後2万石を摂津国で加増され10万石となり正武・正喬の2代とも老中となった。その後1823年(文政6)阿部正権(まさのり)は陸奥国白河へ転じ,伊勢国桑名から松平忠尭が10万石で入封した。忍藩には藩政のほか重要な任務として川俣関所の警備があり,さらに松平氏時代には42年(天保13)以降房総沿岸の警備が命ぜられ富津と竹ヶ岡に陣屋を築き江戸湾防備にあたった。また53年(嘉永6)ペリー来航により,房総より転じて品川の第3台場の防衛を分担した。これらの諸負担は逼迫した藩財政をさらに悪化させた。松平氏は忠尭より忠彦,忠国,忠誠,忠敬と世襲したが明治維新をむかえて1871年(明治4)忍県となり,同年11月埼玉県に統合された。
執筆者:大舘 右喜
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忍藩
おしはん
徳川家康の関東入国以降、武蔵(むさし)国忍(埼玉県行田(ぎょうだ)市)に置かれた譜代(ふだい)藩。1590年(天正18)深溝(ふこうず)松平家忠(いえただ)が1万石で入封し、戦国末期に成田氏の領した忍城を回復し居城としたが、92年(文禄1)下総(しもうさ)国(千葉県)上代(かじろ)に転封、ついで松平忠吉(ただよし)(家康四男)が10万石で入封し、94年利根(とね)川流路の改修により領内の整備を進めた。忠吉が関ヶ原の戦い後、1600年(慶長5)尾張(おわり)(愛知県)清洲(きよす)城に移ると、忍領は城番の配置を経て26年(寛永3)深谷(ふかや)藩酒井忠勝の加増地となった。その後、忍領は1633年松平(大河内(おおこうち))信綱(のぶつな)が3万石で入封して藩主となり老中も勤め、39年川越転封まで藩政の充実に努力した。同年下野(しもつけ)(栃木県)壬生(みぶ)から阿部忠秋が入封し5万石を領した。忠秋は1647年(正保4)1万石、63年(寛文3)2万石の加増により8万石となる。阿部家は忠秋、養子正能(まさよし)、正武(まさたけ)と3代老中に列した。正武のとき10万石となり、1699年(元禄12)相模(さがみ)(神奈川県)・上野(こうずけ)(群馬県)の所領を武蔵に移され、忍領6万石、秩父(ちちぶ)領・鉢形(はちがた)領・柿木(かきのき)領2万石、摂津(大阪府・兵庫県)2万石の藩領となった。翌年正武は忍城を改築した。ついで正喬(まさたか)が老中につき、以後正允(まさちか)、正敏、正識(まさつね)、正由(まさより)、正権(まさのり)と続いたが、1823年(文政6)陸奥(むつ)(福島県)白河に転封となり、桑名から松平忠堯(ただたか)が入封した。藩領は武蔵8万石、播磨(はりま)(兵庫県)2万石であったが財政難に苦慮した。ついで忠彦(たださと)・忠国のとき上総(かずさ)・安房(あわ)(千葉県)の沿岸防備を負担し、忠誠(ただざね)、忠敬(ただたか)と続いた後、廃藩置県を迎え、1871年(明治4)7月忍県となり、11月には埼玉県に編入された。
[大舘右喜]
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おしはん【忍藩】
江戸時代、武蔵(むさし)国埼玉郡忍(現、埼玉県 行田(ぎょうだ)市)に藩庁をおいた譜代(ふだい)藩。藩校は進修館。1590年(天正(てんしょう)18)の徳川家康(とくがわいえやす)関東入国の際、松平(深溝(ふこうず))家忠(いえただ)を1万石で入封(にゅうほう)、立藩させた。次いで92年(文禄1)に家康の4男松平忠吉(ただよし)が10万石で入封したが、1600年(慶長(けいちょう)5)の関ヶ原の戦い後に尾張(おわり)国清洲(きよす)藩に転封(てんぽう)(国替(くにがえ))となり、以後、深谷藩主酒井忠勝の加増地になった一時期をのぞき、30年間にわたって番城となった。33年(寛永(かんえい)10)、老中の松平信綱(のぶつな)が3万石で入封、以後、39年に5万石で入った老中の阿部忠秋(ただあき)以下9代、1823年(文政(ぶんせい)6)に10万石で入った松平(奥平)忠堯(ただたか)以下5代を経て明治維新に至った。幕末には房総沿岸の警備や品川防衛を担わされた。1871年(明治4)の廃藩置県により、忍県を経て埼玉県に編入された。
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忍藩【おしはん】
武蔵国埼玉郡忍(現埼玉県行田市)に藩庁を置いた譜代藩。忍城には戦国末期成田氏が居城。1590年徳川家康は深溝(ふこうず)松平家忠を城整備のため配置した。1592年東条松平忠吉が10万石で入封。忠吉転封後,10万石の地は幕府領となり,忍城は幕府領の番城となった。1633年松平信綱が3万石で入封,忍藩初代とされる。その後阿部氏,松平氏と変遷。領知高は5万石〜10万石。
→関連項目紀伊国屋文左衛門
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忍藩
おしはん
江戸時代,武蔵国埼玉郡忍地方 (埼玉県) を領有した藩。慶長5 (1600) 年,松平忠吉が尾張 (愛知県) 清洲に移ってのち,酒井忠勝5万石,松平信綱3万石を経て,寛永 16 (39) 年阿部忠秋が3万石で入封したが,阿部氏は元禄7 (94) 年までに 10万石に達し,文政6 (1823) 年陸奥白河 (福島県) に転封するまで続き,代って家門松平忠堯が伊勢 (三重県) 桑名より入封,廃藩置県まで同氏が在城した。松平氏は江戸城溜間詰。
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忍藩
武蔵国、忍(おし)(現:埼玉県行田市)を本拠地とした譜代藩。戦国時代には成田氏の領地。徳川家康の関東入国に際し、松平(深溝(ふこうず))家忠が入封、次いで家康4男の松平忠吉が入封。幕府領などを経て、阿部氏、松平氏が長く統治した。
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世界大百科事典(旧版)内の忍藩の言及
【譜代大名】より
…そのため,外様大名に比較して転封(国替)が著しく,しかもその所領は天領や旗本領との間に統廃合,切替えが行われたため,著しく分散知行化(非領国型)するに至った。例えば1664年(寛文4)武蔵忍(おし)藩の所領は,老中阿部忠秋の所領であったが,その所領高8万石は,武蔵のうち埼玉(35ヵ村),大里(31ヵ村),秩父(27ヵ村),足立(13ヵ村),幡羅(2ヵ村),男衾(9ヵ村)の6郡のほか相模三浦郡(8ヵ村),上野新田郡(7ヵ村)に存在した。幕府は親藩とともに譜代大名といえども,世嗣断絶ないし幕法違反の場合は改易し,幕藩体制の維持につとめた。…
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出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」