志波城跡(読み)しわじようあと

日本歴史地名大系 「志波城跡」の解説

志波城跡
しわじようあと

[現在地名]盛岡市下太田 方八丁、中太田 方八丁など

雫石しずくいし川南岸の沖積地の段丘面に位置する平安初期の城柵・官衙跡。標高は一三一メートル前後。国指定史跡。斯波城とも記す。「日本紀略」延暦二二年(八〇三)二月一二日条に「令越後国米三十斛、塩卅斛、送造志波城所」とあり、造城使は坂上田村麻呂(同書同年三月六日条)、同年初頭に築城計画が策定されたと考えられる。坂上田村麻呂は翌年八月には造西寺長官として在京しており(「日本後紀」同二三年八月七日条)、工事中途の越冬は困難とされることなどから、志波城の竣工は同二二年中のことと考えられている(岩手県史)。同二一年に完成した胆沢いさわ(現水沢市)にまで達していた中央政府の前線基地はこれによってさらに北進し、蝦夷経営の官衙としての役割を果したと思われる。

延暦二三年には当城と胆沢郡の間が一六二里と長く往来に不便であるとして、中間に駅の設置が許可されている(「日本後紀」同年五月一〇日条)。弘仁二年(八一一)には「和我、縫、斯波三郡」が建置されたが(同書同年一月一一日条)、同年閏一二月には陸奥出羽按察使の文室綿麻呂によって、当城廃城の建議がなされている。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

国指定史跡ガイド 「志波城跡」の解説

しわじょうあと【志波城跡】


岩手県盛岡市上鹿妻(かみかづま)にある9世紀初頭に造営された城柵(じょうさく)跡。城柵とは、朝廷蝦夷(えみし)を統治するために設置した行政府で、その中で志波城は陸奥国(むつのくに)の最北に位置し、国府多賀城(たがじょう)に匹敵する最大級の規模をもっていた。803年(延暦22)、坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)が、北上川支流雫石(しずくいし)川沿いの、南の胆沢方面、西の秋田方面と連絡する交通の要衝に志波城を築いたが、雫石川氾濫の被害がひどく、10年後に主要な機能を南にある徳丹城(とくたんじょう)へ移転した。城の外郭は、840m四方築地塀(ついじべい)で囲まれ、その外側に928m四方の堀を設けて2重に区画していた。遺跡としては当初「太田方八丁遺跡」と呼ばれていたが、1976年(昭和51)に東北縦貫自動車道建設にともなう発掘調査を開始して以来、継続的に調査が行われ、1984年(昭和59)に、『日本紀略』に記載のある「志波城」の遺跡として国の史跡に指定された。その後、史跡の重要地区の用地取得事業や保存整備事業が行われ、建物跡などを復元して、1997年(平成9)から志波城古代公園として整備して、一般公開している。JR東北新幹線ほか盛岡駅から岩手県交通バス「飯岡十文字」下車、徒歩約5分。

出典 講談社国指定史跡ガイドについて 情報

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