志登支石墓群(読み)しとしせきぼぐん

日本歴史地名大系 「志登支石墓群」の解説

志登支石墓群
しとしせきぼぐん

[現在地名]前原市志登 坂元

雷山らいざん川の旧河口に近い標高六メートルほどの沖積微高地上に位置する弥生時代の墳墓遺跡。昭和二八年(一九五三)石墓一〇基を中心に、甕棺墓八基・石組・石敷遺構などが調査された。支石墓群のうち四基について埋葬主体の調査が行われ、土壙・敷石土壙と報告されたが、墓壙内から裏込めに使われたとみられる塊石が出土している状況から木棺の可能性もある。六号墓からは朝鮮半島製の柳葉形磨製石鏃が四本出土し、うち二本は切先と茎が破損欠如、刃毀れも認められた。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

国指定史跡ガイド 「志登支石墓群」の解説

しとしせきぼぐん【志登支石墓群】


福岡県糸原市志登にある墓群。福岡平野の西、玄界灘に突き出た糸島半島の付け根に広がる平野のほぼ中央部に所在する。周辺の水田面より約1m内外高い場所に、10基の支石墓が1~2mの間隔を置いて並んでいる。1952年(昭和27)に発見され、1953年(昭和28)の発掘調査で、支石墓4基と甕棺(かめかん)8基が見つかり、支石墓は朝鮮半島南部に多い「基盤形支石墓」であることが判明した。1954年(昭和29)に、稲作農耕の伝播とともに伝わった外来墓制を示す好例であり、わが国の墓制史を知るうえでも貴重であることから国の史跡に指定された。支石墓は、1~3個の支石で、径1.5~2m、厚さ50cmほどの平らな石や亀甲状の大石を支える形式のもので、下部構造は塊石によって長方形の石囲いをしたものと、浅い土坑をもつものがあった。副葬品として、黒曜石製石鏃(せきぞく)6、朝鮮製と判断される柳葉形磨製石鏃4が出土。上石の大石は玄武岩と花崗岩が使用され、甕棺は単棺・合口甕棺で、弥生時代前期~中期のものと推定されている。出土遺物は糸島市立伊都国歴史博物館に収蔵。JR筑肥線波多江駅から徒歩約15分。

出典 講談社国指定史跡ガイドについて 情報

日本大百科全書(ニッポニカ) 「志登支石墓群」の意味・わかりやすい解説

志登支石墓群
しとしせきぼぐん

福岡県糸島(いとしま)市志登に所在する弥生(やよい)時代の墳墓遺跡。糸島平野のほぼ中央の標高約6メートルの沖積地上に立地しているが、かつては怡土(いと)郡と志摩郡を分断していた水道に面していた。10基の支石墓が存在していたが、1953年(昭和28)にそのうちの4基と甕棺墓(かめかんぼ)8基が調査された。1~3個の支石に花崗(かこう)岩、玄武岩の上石を置く碁盤形の例である。下部構造には石敷き、塊石による石囲い、土壙(どこう)などがみられる。8号支石墓から朝鮮製有茎磨製石鏃(せきぞく)が出土し、支石墓の時期を示した。甕棺墓は1例に疑問があるが、他は弥生時代前期末~中期中ごろに属しており、支石墓に後出するのであろう。1954年国の史跡に指定された。

[高倉洋彰]

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百科事典マイペディア 「志登支石墓群」の意味・わかりやすい解説

志登支石墓群【しとしせきぼぐん】

福岡県前原(まえばる)市(現・糸島市)志登にある弥生(やよい)時代前の支石墓群(史跡)。径2m以上の平らな,または亀甲(きっこう)状の蓋石(ふたいし)をのせた支石墓が10基あり,打製と磨製の石鏃(せきぞく)が出土。縄文時代晩期〜弥生時代中期の甕棺墓も調査されている。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「志登支石墓群」の意味・わかりやすい解説

志登支石墓群
しとしせきぼぐん

福岡県糸島市にある弥生時代前期から中期の支石墓を中心とした墓址。1953年の発掘で,支石墓 10基,甕棺 8基とそれに伴って打製・磨製石鏃が発見された。支石墓は朝鮮南部に分布する,いわゆる南方式(碁盤式)支石墓と関連があり,大陸文化の伝播を実証する貴重な資料である。

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