日本大百科全書(ニッポニカ) 「応和宗論」の意味・わかりやすい解説
応和宗論
おうわのしゅうろん
963年(応和3)8月21日から5日間、村上(むらかみ)天皇御願の『法華経(ほけきょう)』書写の成就にあたり、宮中清涼殿(せいりょうでん)に南都と北嶺(ほくれい)の碩学(せきがく)各10人を招いて『法華経』の義理を講ぜしめた際、法相(ほっそう)と天台の両宗間で行われた教義論争。
北嶺の天台宗はいっさいの衆生(しゅじょう)はすべて成仏(じょうぶつ)するという一切皆成(いっさいかいじょう)説を主張、南都の法相宗は衆生が先天的に備えている素質に5種あるという五姓各別(ごしょうかくべつ)説にたって、成仏しないものがあることを主張した。講経は毎日朝夕2座行われ、両方から講師と問者が相互に出て論義問答したが、第3日朝座に天台の良源(りょうげん)が南都の法蔵(ほうぞう)を論伏するに及び、第5日朝座には南都の仲算(ちゅうざん)が天台の寿肇(じゅちょう)を痛論し、ついに勅令により同日夕座には良源と仲算が討論し、激論を戦わせた。『元亨釈書(げんこうしゃくしょ)』巻4、『扶桑略記(ふそうりゃっき)』巻26などには、良源の勝ちとしてあり、『応和宗論日記』、『本朝高僧伝』巻9などには仲算の勝ちを伝えるが、勝敗は決しなかったというのが真相であろう。この問題は、仏教における本覚門(ほんがくもん)思想と始覚門(しかくもん)思想、理想主義と現実主義との対立ともいうべきもので、その止揚解決は鎌倉仏教にゆだねられたとみることができる。
[薗田香融]