農本主義者橘孝三郎(たちばなこうざぶろう)が茨城県茨城郡常盤(ときわ)村に創設した私塾。1915年(大正4)第一高等学校を中退した橘は、長兄鉄太郎や次兄徳次郎らと「兄弟村農場」を経営していたが、1929年(昭和4)11月、「大地主義」「兄弟主義」「勤労主義」を掲げて愛郷会を結成し、中堅自作、自小作農家の青年たちを主体に農民の啓蒙(けいもう)活動や協同組合運動などを行った。さらに1931年「新日本建設の闘士」を養成するため自営的勤労学校の設立を企図し、同年4月15日愛郷塾を開設した。しかし、橘はこのころから井上日召(にっしょう)らを通じて直接行動による国家改造運動に関心を抱き始め、海軍士官らによるクーデター計画に参画する。そして、五・一五事件には塾生数名が「農民決死隊」を組織して東京市内の変電所襲撃を担当した。これによって塾の名は一躍有名になったが塾勢は逆に衰退し、加えて1933年1月の塾生による請願令違反事件(橘釈放要求直訴未遂)による弾圧で塾の活動はまったく停止した。
[安部博純]
『松沢哲成著『橘孝三郎――日本ファシズム原始回帰派』(1972・三一書房)』▽『保阪正康著『五・一五事件――橘孝三郎と愛郷塾の軌跡』(1974・草思社)』
農本主義者橘孝三郎が1931年水戸市郊外に創立した私塾。正式には自営的農村勤労学校愛郷塾。1915年旧制第一高等学校を中退し,郷里にほど近い自家の所有地で〈兄弟村農場〉を経営していた橘は,29年11月23日,〈全日本の国民的改造の為に(中略)命を賭して戦ふべき秋が来た〉として,愛郷会を設立。折からの農村恐慌のなかで〈愛郷主義〉を唱え,茨城県下各地で講演会を開催,32年5月には支部29,会員400を擁するに至る。この愛郷会の活動の一環として,31年4月15日,〈新日本建設の闘士〉を養成することを目的に設立されたのが愛郷塾である。塾長橘のもと,林正三,後藤圀彦を教師に,創立当時,塾生は青年部5名,少年部8名であった。しかし大恐慌下,農村の窮乏が進むなか,橘は井上日召を介して急進的なファッショ運動に接近,橘の強い影響下にあった塾生は32年5月,〈農民決死隊〉を組織し,変電所襲撃を行い,五・一五事件に参加。これにより愛郷会・愛郷塾は世間の注目をひいたが,他面,指導者であった橘は無期懲役の判決をうけ,愛郷会の勢力は衰え,愛郷塾もまた橘孝三郎釈放を求める塾生の直訴未遂事件により,孝三郎の兄徳次郎も逮捕され,33年1月事実上解散した。その後,38年の元塾生の出獄や,40年の橘孝三郎の出獄を機として,再興がはかられたが,目だった活動はなしえず終わる。
執筆者:須崎 慎一
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1931年(昭和6)に橘孝三郎が水戸市郊外に開いた私塾。正式名称は「自営的勤労学校愛郷塾」。農場を経営していた橘は,1929年荒廃しつつある農村を救おうとして愛郷会を結成,農村青年教育のため愛郷塾を創立。塾生は寄宿舎で合宿し,学課のほか農業実習などが教授された。橘は井上日召(にっしょう)の知遇を得て国家革新運動に関与,5・15事件では塾生による農民決死隊の変電所襲撃をもって参加した。
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…大正デモクラシーのもとでつくられた,民衆の自己教育と地域改革をめざす上田自由大学(自由大学),また第2次大戦直後の青年学級やサークル運動なども,私塾の伝統を継承するものとみることができる。また昭和前期には橘孝三郎の愛郷塾など,国粋主義的運動による私塾もあった。 現代の私塾として,小・中学生らに対する学習塾,進学塾,ピアノ,そろばんなどのおけいこ塾があげられる。…
※「愛郷塾」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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