慈恩寺跡(読み)じおんじあと

日本歴史地名大系 「慈恩寺跡」の解説

慈恩寺跡
じおんじあと

[現在地名]安土町慈恩寺

六角氏頼(法名崇永)が母の菩提のために建立したといわれる律宗寺院で、威徳院と号し、六角氏の菩提寺であったが、戦国時代に兵火にかかって廃寺となり、跡地には栗太くりた金勝こんぜ(現滋賀県栗東町)から浄土宗阿弥陀寺を移し、浄厳じようごん院とした。草創は延文―康安(一三五六―六二)頃とされるが、応安三年(一三七〇)六月二日に造られ、七月一一日に供養された本法ほんぽう(現京都市上京区)金銅宝塔に「大檀那当国大守雪江崇永」「施入江州慈恩寺舎利塔」「住持興算大徳」などとみえる。

慈恩寺跡
じおんじあと

[現在地名]西之表市西町

西にし町札の辻の北西春日かすが山の麓にあった法華宗の寺院。華蔵山と号し、本尊は釈迦如来であった。大同四年(八〇九)の建立と伝えるが(「懐中島記」など)、詳細は不明。はじめ律宗寺院であったが、長享二年(一四八八)住職円林が京都本能寺の僧で屋久島・種子島に法華宗を広めた日増に謁し、法論の結果法華宗に転宗したという。法華第二祖日恵は島主清時の六男であった(種子島家譜)。種子島島主種子島氏代々の祈願所として栄え、同氏が旅行の節は当寺に参詣、三堂拝礼を済ませ法華経を拝戴して旅立つのが習わしであったという。天正年中(一五七三―九二)島津義久の北上遠征の折、島主種子島久時も出陣、このとき久時は三堂拝礼の後、法華経の拝戴を略し乗船した。

慈恩寺跡
じおんじあと

[現在地名]鎌倉市大町四丁目

三浦道より南へ分岐する道奥、はなやつにあった。臨済宗、白華山と号し、足利直冬の菩提寺。寺名は直冬の法名慈恩寺殿玉渓道昭に由来する。開山桂堂聞公。開創年代未詳。

元亨三年(一三二三)の北条貞時十三年忌供養には当寺僧衆五人が参列している(「北条貞時十三年忌供養記」県史二)。「殿中以下年中行事」によれば、毎年正月一六日には住僧が関東公方の館に参上した。応永年中(一三九四―一四二八)京都五山の名僧たちが、当寺の風物にあこがれ多数の詩をつくり、応永二五年寺主永貞が板に刻んだ(「慈恩寺詩板」伝宗庵蔵)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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