千葉県北部、下総(しもうさ)台地の中央にある国際空港。2004年(平成16)3月までは、正式名称を新東京国際空港といったが、同年4月1日から現名称となる。成田空港ともいう。新東京国際空港公団が建設し、引き続き2004年3月まで管理、同年4月からは同公団を改組した成田国際空港株式会社が管理している。成田市南東部の三里塚を中心とし、芝山町にまたがる。標高40メートル、1065ヘクタールの広大な土地に、1966年(昭和41)東京羽田(はねだ)から移転する新東京国際空港が計画され、1978年の開港以来、第1期工事分550ヘクタールが利用されてきた。
東京国際空港(羽田空港)の発着回数が限界に達して、航空審議会が1963年に新東京国際空港建設候補地として千葉県富里(とみさと)村(現、富里市)付近、茨城県霞ヶ浦(かすみがうら)周辺をあげ、調査の結果、霞ヶ浦が不適とわかると富里に決定をみた。しかし、地元民の強い反対にあって計画を変更せざるをえなくなり、1966年、三里塚御料牧場があり、県有地が広い三里塚周辺に閣議決定した。この地は江戸時代佐倉七牧の一つ取香牧(とっこうまき)に属していて、明治以後に開拓入植が行われた所で、農家数も少なかったことが理由の一つでもあった。この決定についても、地元農民のみならず政党、学生を巻き込んでの反対闘争が展開され、以後1978年5月20日の開港日までの12年間に、反対派、機動隊の両方に多数の血が流された。1973年には長さ4000メートル、幅60メートルのA滑走路、管制塔、ターミナルビル、エプロンなど空港施設は完成したものの、千葉市花見川(はなみがわ)を経由する燃料輸送パイプライン敷設をめぐっての反対運動、その代替措置としての現JR鹿島(かしま)線での鉄道輸送についての反対など新たな火種が次々とおこり、開港が大幅に遅れるとともに、第1期工事分のみの開港に落ち着かざるをえない状態となった。日本の空の表玄関としては、東京の都心から60キロメートル離れており、交通体系が問題であるとの意見が強かったが、現状では、京成(けいせい)電鉄が日暮里(にっぽり)から最短で40分未満で結んでおり、JRや高速道路なども整備され、とくに諸外国の主要な国際空港に比べてアクセス上問題があるとはいえない。
[山村順次・戸崎 肇 2023年4月20日]
当初、旅客ターミナルは一つだけだったが、旅客の増加に対処するため、1992年(平成4)に第2旅客ターミナルが完成した。さらに、羽田空港の再国際化に伴い、LCC(格安航空会社)の受け入れが期待されるなか、LCC専用のターミナルとして、第2旅客ターミナルの西側に第3ターミナルが建設され、2015年4月から運用が開始された。
それに先立つ2012年3月には、首都圏として初となるビジネスジェット専用ターミナルも運用を開始している。
滑走路については、当初平行滑走路の建設が計画されたが、建設予定地に反対派地権者の土地が残り、用地買収が進まないため、当初の予定から滑走路の位置を北側に800メートルずらし、長さも短縮し、2180メートルの暫定滑走路が2002年4月から供用開始された。現在はさらに3500メートルの第3滑走路の建設計画が進められており、2029年3月完成の予定である。
また、羽田空港の国際線が拡充されるとともに成田国際空港の運用時間帯の見直しも行われた。1978年の開港以来、23時から翌朝6時までの時間帯は原則として離着陸が禁止されていたが、2019年(令和1)10月27日から、A滑走路の運用時間が1時間延長となり、24時までの離着陸ができるようになった。これは航空機の技術革新が進み、騒音のレベルが下がったこと、また羽田空港との競合が進んだことが背景にある。
2021年の年間旅客数は、国際線、国内線あわせて480万人(新型コロナウイルス感染症流行の影響が出る前の2019年は4241万人)、年間取扱貨物量は260万トン(2021)。
[戸崎 肇 2023年4月20日]
『新東京国際空港公団編・刊『新東京国際空港公団20年のあゆみ』(1987)』▽『村山元英・石井新二編『成田空港と地域振興』(1994・文真堂)』
通称成田空港。千葉県成田市三里塚地区にある第1種空港で,新東京国際空港公団が管理・運営していたが,2003年より民営化され,成田国際空港株式会社に移管され,空港の名称も新東京国際空港から改められた。主として国際線のために使用されている。台湾の中華航空を除いて首都圏に発着するすべての国際線運航がここに集中し,日本の国際航空交通の基幹基地として,その運航量,貨客取扱量ともに逐年増加の一途をたどっている。
東京国際空港(羽田空港)の飽和状態に伴って首都圏に新大型空港を要望する声が1960年代前半から急速に高まり,66年7月4日にその建設が閣議決定された。本格的な工事は67年10月から開始されたが,それに先立って66年6月,地元の約1000戸,3000人の農民によって三里塚・芝山連合新東京国際空港反対同盟が結成された。反対同盟は68年2月,反日共系全学連と決起集会を共催するなど,支援勢力と連携して闘争を強化したため,数度の流血事件まで発生し,深刻な社会問題に発展した。74年3月に第1期工事が終わり空港は事実上完成したが,妨害鉄塔の建設など反対派の抵抗が続いたため開港できず,4年間もそのまま放置された。78年5月20日に至ってようやく強行開港のはこびとなり運用が開始されたものの,開港後もパイプラインの建設工事の遅延のため,83年7月まで5年余にわたって航空燃料の輸送を鉄道に依存し慢性的な燃料不足に陥るなど,世界の空港建設史上でもまれにみる難航を重ねた。さらに第1期工事の完了後ただちに着工される予定になっていた第2期工事も大幅な遅れを見せている。
第1期工事によって完成した部分は,550haの敷地にターミナルビルなど関連施設と,4000m×60mの滑走路1本のみの比較的小規模なもので,その後第2ターミナルビルが建設されたが,第2期工事では敷地面積が1065haに拡張され,2500m×60mの新滑走路1本が追加建設される予定になっている。設備の面では,複数の並行誘導路やほとんどあらゆる種類の航行援助装置が設置されていて世界最高の水準に達している。しかし,一面,都心からの距離が66kmもあること,南北に羽田空港と自衛隊の百里航空基地および軍事訓練空域が存在するため,成田空港周辺では出発・進入経路が複雑に交錯して航空交通管制上の障害となっていること,横風用滑走路がないため強い横風時には運航に支障が出ることなど,多くの問題点も残されている。また,たび重なる反対派の侵入・襲撃事件の経験により,空港自体もパイプラインや無線標識などの関連施設も,常時厳戒態勢のもとで運用されるという異常な状況が続いている。1994年に運輸省・空港公団が過去の強行方針の非を認めた結果,反対派農民が話合いに応じ,さらに一部は移転に合意するなどの変化もあり,同空港をめぐる事態は新たな展開を見せはじめた。
執筆者:関川 栄一郎
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