中国、清(しん)朝中葉の学者。字(あざな)は東原(とうげん)。安徽(あんき)省休寧(きゅうねい)県の人。幼時、塾師を困らせるまでの理論的な思考を示し、江永(こうえい)を師として22歳から暦算、文字音韻(おんいん)の学の論文を書き始め、また『考工記図注』を著す。家は貧しく食にも事欠くなかで『屈原賦注(くつげんふちゅう)』『詩補伝』を著す。32歳で都に上り銭大昕(せんたいきん)にその学識を認められ、紀昀(きいん)の家に寄寓(きぐう)。科挙には合格できなかったが、とくに進士及第と同等の官位を与えられて、四庫全書の纂修(さんしゅう)官にあてられ、『永楽大典』から『水経注』『算経十書』の復原などを完成したが、事業さなかに病没した。その学説は全集『戴氏遺書』とくに段玉裁(だんぎょくさい)が編した『戴東原集』にみえ、自らは『孟子字義疏証(もうしじぎそしょう)』を平生の著述のなかでもっとも重要なものという。戴震の学問は博学に培われた見識によって、初めに法則をたてて複雑な事象をみごとに整合してみせる傾向がみえ、呉(ご)派とよばれる恵棟(けいとう)らの学風と趣(おもむき)を異にし、段玉裁・王念孫父子に継がれて皖(かん)派の学とよばれる。
[近藤光男 2016年3月18日]
中国,清中期の学者。字は東原。安徽省休寧の人。考証学とよばれる清朝経学において,銭大昕(せんだいきん)と並ぶ第一人者。呉派とよばれる恵棟の樸学に対して,漢儒を超えて大胆に古典の真実に迫り,師の江永,弟子の段玉裁,王念孫・王引之父子を併せて皖派(かんぱ)の学とよばれる。西洋暦算学に通じ,最初の著述は《疇算(ちゆうさん)》,ついで文字音韻学の論文や古代科学技術の研究《考工記図注》,また《屈原賦注》《詩補伝》を書く。都に出て紀昀(きいん)らの知遇をうけるが,会試に及第できずに過ごすうち,《孟子字義疏証》を著す。理・道・性などの語義を論証して孔孟の心を把握しようとするのは,日本の伊藤仁斎の古義学の方法に似るが,戴震は朱子学を批判して人間の欲望肯定の哲学を展開し,日ごろの著述の中で最も大切なものとみずからいう。《四庫全書》の編纂が始まると,進士及第と同資格が与えられ翰林院庶吉士として加わり,経部の提要は載震の筆に基づくという。官に卒した。その学術論文集《戴東原集》がある。
執筆者:近藤 光男
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1723~77
清の学者。安徽(あんき)省休寧の人。江永を師とし,考証学の各方面に成績をあげたが,特に文字・訓詁(くんこ)の学に優れた。哲学者でもあり,理中心の朱子学に反対して情を重んずる気の哲学を説いた。著作は多く,全集に『戴氏遺書』がある。
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…皖とは中国安徽省の古名で,清代に,この地に多くの学者を輩出したので,その人々を皖派と称しているが,大きくは浙西学派に含まれる。江永,戴震に源を発して段玉裁,任大椿,王念孫,王引之,さらに後の兪樾(ゆえつ),孫詒譲(そんいじよう)らに受けつがれた。この学派は懐疑的態度によって事実を確かめ,帰納的論理的に分析する方法を共通点としていることで,恵棟らの漢代訓詁を固守する呉派とは大いに異なる。…
…乾隆・嘉慶年間(1736‐1820)がその全盛期であって,乾嘉の学ともよばれている。 考証学の学派としては,恵棟を中心とする呉派と,戴震を中心とする皖(かん)派に分かれる。呉派が漢儒の学説を墨守し復古を主張したのに対し,皖派は必ずしもそれに拘泥することなく,創造的な研究を推し進めた。…
…1931年,満州事変がおこると,週刊《独立評論》を創刊し,愛国と侵略非難の筆をふるい,民主立憲を主張した。学術面では《戴東原の哲学》(1925)で,18世紀の戴震の哲学の中に,西欧近代の科学的精神と同質のものを指摘した。1938年,アメリカ大使に任ぜられ,一時は蔣介石に接近したものの,1949年新中国成立後はアメリカに亡命して,なお自由主義の立場を崩さず,雷震らの《自由中国》創刊に参加,58年台湾に帰り中央研究院院長となったが,なお蔣介石とは一線を画していた。…
…したがって,体裁や順序が乱れ,経文と注文との区別がつかない部分も生じた。後世これをもとの形に復元しようとする研究が起こり,ことに清代には全祖望(ぜんそぼう),趙一清(ちよういつせい),戴震(たいしん)という3学者が出て,互いに業績を競った。しかし,この3人は年齢からも《水経注》の研究歴の上からも全,趙,戴という順序なのに,それとは逆に成果が出版されたため,学界に大問題を起こした。…
… この清朝考証学の成果は,今日に至るまで高い評価を受けているが,反面において思想的内容に乏しいという代償を伴うものであった。ただこの間にあって考証学の大家である戴震が,朱子学の理性中心主義を否定し,人間の情性尊重の立場を主張したのが異彩を放っている。もし人間性の尊重が近代思想の特徴の一つであるとすれば,これはまさに近代の萌芽を示すものといえよう。…
…この考証学は実証的であるだけに,学術上の寄与は大きいが,そのかわり哲学的な内容にはほとんど見るべきものがない。ただひとり考証学の大家の戴震は,その《孟子字義疏証》において,朱子学の理性至上主義に批判を加え,そのリゴリズムを排したのが異彩を放っている。アヘン戦争以後,列国の中国侵略が激化するとともに,思想界にも大きな変動が生まれ,康有為などをはじめとして改革論・革命論を唱えるものが続出するようになったが,その多くは政治論・社会論の範囲にとどまり,哲学の域にまで達した例は乏しい。…
…このような朱熹の見解は,彼が当時目にした人間と社会に対する危機感にもとづくものであったが,朱子学が権威化してゆくにつれ,天理人欲の名において人間性を抑圧するようになったのも事実である。明末・清初の王夫之(船山)が〈人を離れて別に天があるわけではなく,欲を離れて別に理があるわけではない〉(《読四書大全説》巻八)などと述べ,清の戴震(たいしん)も情欲肯定論を提起した(《孟子字義疏証》)のは,それに対する反発であった。【三浦 国雄】。…
…まず顧炎武が《音学五書》を著して,古音を10部に分けた。つづいて江永が《古韻標準》を著し,13部とし,段玉裁が《六書音韻表》で17部に分け,戴震は《声類表》を著し,9類25部とした。さらに王念孫が21部,江有誥(こうゆうこう)も《音学十書》において21部とする。…
…明の王守仁(陽明)は,理気の関係についてはさほどの関心をもたなかったが,〈理は気の条理,気は理の運用〉(《伝習録》中巻)という理気一体観を表明している。また,同時代の羅欽順(らきんじゆん)(整庵)や王廷相らは,理よりも気を世界の根源として理の実体化を批判し,清の戴震(たいしん)も理の実体化には反対し,理を事物に内在する条理だとした。日本の伊藤仁斎も,戴震より早く〈理は気中の条理のみ〉(《語孟字義》天道)と言い切っている。…
※「戴震」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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