中国最大の叢書。清朝の乾隆帝が,入手できる限りの書籍を集め,主要な3457部を一定の書式に従って筆写させ,自己の蔵書としたもの。経・史・子・集の四部に分類されて保管されたので四庫の名がある。乾隆帝は1741年(乾隆6)から集書を始め,72年に四庫全書館を置き,紀昀(きいん)らに命じて,勅撰本,内府蔵本,永楽大典本,各省採進本,私人進献本,通行本の6種よりなる収集原本をもとに,四庫に収める書と目録だけを作る書とに分けさせた。前者を著録といい,後者を存目という。収書法には買上げと借用とがあり,500部以上進献したものには,《古今図書集成》が下賜された。しかし審査の際に,清朝にとって都合の悪い記事は削除されたり文字を改められ,2000を超える書籍が禁書となったのであり,思想統制と知識人対策が同書編纂の目的の一つであったといわれている。
こうして最初の四庫全書一揃いができたのは1781年で,任松如の《四庫全書答問》によると著録3457部7万9070巻,存目6766部9万3556巻といわれる。四庫全書は合計7揃い作られ,北京紫禁城内の文淵閣をはじめ,文溯(ぶんそ)(奉天),文津(熱河),文源(円明園)の清朝ゆかりの内廷四閣と,文匯(ぶんかい)(揚州),文宗(鎮江),文瀾(杭州)の江浙三閣に分置された。ちなみにこれら書庫は寧波(ニンポー)の蔵書家范欽の天一閣を模している。江浙三閣は書物献納者たちの不満解消をも目的として,とくに蔵書家の多い江南地方に設けられたもので,閲覧と書写をも認めたため,清朝学術の振興にも大きく貢献した。これらの半分は清末の戦乱のため失われたが,文淵閣のものは台湾の故宮博物院に,文溯閣と文津閣のものはそれぞれ甘粛省図書館と北京図書館に,文瀾閣のそれは罹災ののち補写して浙江図書館に入っている。八万巻の膨大な書物は,縦31.5cm,横20cmの形に統一され,毎ページ8行の朱罫の中に1行21字に楷書できちんと筆写してある。また表面は絹で美しく装幀されるが,経部が黄緑,史部紅,子部青藍,集部灰色と色分けされ,各冊の巻頭には収蔵書閣の印,末尾には〈乾隆御覧之宝〉の璽印(じいん)が押されている。さらに各書の巻首には著作者の小伝,書物の内容,その価値などを解題としてつけ加える。これを集め,存目の解題をもあわせた目録が《四庫全書総目(提要)》200巻である。この目録は経部を10,史部16,子部14,集部5に分類し,その中でさらに細分して,それぞれの体例を明らかにする。この分類は単なる書物の分類ではなく,漢代以来の中国目録学の集大成であり,また現存する書物による中国学術の体系的な分類でもあった。
学問の総体を示す膨大な書籍を収集することは,それだけ分類にも系統性と精密さを求められる。四庫全書で一つの頂点に達した旧中国の書物の収集と分類は,それまでの歴史と伝統の集成であると同時に,現在に至るまで,なお漢籍分類のよりどころともなっている。この中国独自の四部分類の体系が包括的な唯一の体系でなくなる過程が中国の近代でもあった。なお文淵閣の四庫全書全3万6000余冊は影印出版されつつある。
執筆者:勝村 哲也
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中国、清(しん)の乾隆帝(けんりゅうてい)欽定(きんてい)の一大叢書(そうしょ)。7万8731巻(巻数には異同がある)。朱筠(しゅいん)の建議によって、1772年から10年間に、永楽大典本、朝廷蔵本、官選本、各省採進本、私人進献本、通行本などから、当時集められるだけの重要な書籍を集めて、経、史、子、集の4部に分け、これを校正し、善本をつくり、浄写させ、各書に著者の履歴、書の内容、批評を記した、いわゆる「提要」を冠した。その際、その内容が清朝に都合の悪いものは、一部分を削り、あるいは禁書に指定した。初め四そろいをつくり、紫禁城中の文淵(ぶんえん)閣、円明園離宮の文源閣、奉天行宮(あんぐう)の文溯(ぶんさく)閣、熱河(ねっか)避暑山荘の文津(ぶんしん)閣に蔵した。その後、揚州(ようしゅう)大観堂に文匯(ぶんかい)閣、鎮江金山寺に文宗閣、杭州(こうしゅう)聖因寺行宮に文瀾(ぶんらん)閣を建てて一部ずつ所蔵させた。現在『四庫全書』のうち130種余は『武英殿聚珍(しゅうちん)版叢書』として出版され、またほかは『四庫珍本』として初集から11集まで出版されている。なお提要は『四庫全書総目提要』200巻にまとめられ、中国学術の体系を概観できる。
[川越泰博]
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清代にできた大叢書。乾隆(けんりゅう)帝の命により紀昀(きいん)ら多数の学者を動員し,10年かかって1781年に完成。当時現存の古今の書物をほとんど網羅し,経,史,子,集の4部に分類編纂,約3500種8万巻から成る。北京宮城の文淵閣(ぶんえんかく),円明園の文源閣,熱河(ねっか)離宮の文津閣(ぶんしんかく),奉天宮城の文溯閣(ぶんさくかく)の4カ所と揚州,鎮江,杭州の3カ所に設置されたが,戦乱などにより失われたものが少なくない。
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(2014-7-1)
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…前者は明末の動乱で焼失し,後者は清朝になって翰林院に移管されたが,すでに2000巻以上が失われていた。乾隆帝は《四庫全書》の編纂にあたり,《永楽大典》の中に一般では亡佚してみられぬ書物が多く含まれていることに注目し,各項目からそれらを抽出復元させた。こうして経部66,史部41,子部103,集部175部,総計385部4926巻の書物が再び日の目をみた。…
…以来24年を経てなお刊行に至らぬまま雍正帝の世を迎えたとき,彼は清初の三藩の乱に荷担した罪を問われて黒竜江省に流されたので,あらためて蔣廷錫が勅を奉じて事業を継承し,1725年(雍正3)に完成,翌々年に銅版印刷法を用いて64部を刷った。同書はその後の学術の進展にさほど寄与したと思えないが,後年乾隆帝が《四庫全書》を編纂させたとき,《古今図書集成》未収書を《永楽大典》から復元させるなど編集の規範として役立てられたほか,500部以上の書物を乾隆帝に進献した鮑士恭,范懋柱,汪啓淑,馬裕の4家に恩賞として各1部が下賜されたという。【勝村 哲也】。…
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