埼玉県南部、東京都に接する市。1950年(昭和25)市制施行。1955年柳瀬(やなせ)、三ヶ島(みかじま)の2村を編入。2002年(平成14)特例市に移行。武蔵野(むさしの)台地の中央部にあり、南西に狭山(さやま)丘陵が広がる。西武鉄道新宿線・池袋線・狭山線・山口線ほか、JR武蔵野線、国道463号が通じ、東端に関越自動車道所沢インターチェンジがある。古くは野老沢(ところざわ)と書いたが、その後所沢と書くようになった。中世には鎌倉街道が通っていたため、しばしば合戦の場となったが、江戸時代、三富新田(さんとめしんでん)の開発とともに市場町として発展し、3、8の日には市(いち)が立った。江戸末期から織物業がおこり、所沢絣(がすり)(村山絣)を生産。1910年(明治43)陸軍飛行場ができてからは軍事都市として発展したが、第二次世界大戦後、飛行場はアメリカ軍基地となった。東京都に隣接しているため住宅都市として発展し、とくに1959年(昭和34)日本住宅公団(現、都市再生機構)の新所沢団地が完成して以後、都市化の進行は著しい。鎌倉街道に沿っているため、1333年(元弘3)新田義貞(にったよしさだ)が鎌倉の北条軍を破り、また1352年(正平7・文和1)宗良(むねなが)親王が足利尊氏(あしかがたかうじ)に敗れた小手指ヶ原(こてさしがはら)の古戦場がある。1973年開設の防衛医科大学が1975年に並木地区の本校舎に移転、三ヶ島地区に、1987年4月早稲田(わせだ)大学人間科学部、中富(なかとみ)地区に、1989年(平成1)日本大学芸術学部所沢校舎が開校された。そのほか、狭山湖東部の山口地区には、西武ドーム(球場)、西武園ゆうえんちなどがある。面積72.11平方キロメートル、人口34万2464(2020)。
[中山正民]
『『所沢市史』(1957・所沢市)』▽『『所沢市史』全13巻(1980~1992・所沢市)』
埼玉県南部の市。1950年市制。人口34万1924(2010)。武蔵野台地の中央に位置し,南西部は狭山丘陵が占める。中世には鎌倉街道が通じ,新田義貞軍と鎌倉幕府軍が戦った小手指ヶ原(こてさしがはら)古戦場や滝の城跡,山口城跡など史跡が多い。明治の中ごろまでは3・8の六斎市が開かれ,村山絣の取引が行われた市場町であった。1910年陸軍飛行場が開設され,日本の航空発祥の地として知られるようになり,第2次大戦中は軍都としての性格を強めた。戦後,航空基地はアメリカ軍に接収されたが,71年以降その2/3が返還され,防衛医大,小・中学校,住宅や航空記念公園に利用されている。東京都心から30km圏に位置し,西武池袋線と同新宿線がここで交差しているので,1960年代の住宅公団新所沢団地,70年代の日本新都市開発の所沢ニュータウン造成などを軸として住宅地化が進行した。人口は1960-70年に2.1倍,70-95年に2.3倍に激増し,軍都から近郊住宅都市へと大きく変貌した。1970年代以降,ダイエー・西友などの大型店が進出,86年には西武百貨店もオープンし,市街地の景観も一変した。88年には早稲田大学人間科学部が進出,都内との往来は一層多くなり,90年の国勢調査では,都内への通勤者は県内への通勤者の4倍に達し,典型的な首都のベッドタウンとなっている。関越自動車道のインターチェンジがある。狭山丘陵は狭山湖,ユネスコ村,屋内スキー場,西武球場(現,西武ドーム)などがあるレクリエーション地域で,行楽客も多い。武蔵野台地の新田集落の典型とされる三富(さんとめ)新田は,市の北東部から三芳町にまたがる。
執筆者:新井 寿郎
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
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