日本歴史地名大系 「拝師庄」の解説
拝師庄
はいしのしよう
- 京都市:南区
- 拝師庄
〔興善院領の時代〕
拝志庄の史料上の初見は承安三年(一一七三)の八条院庁下文案(白河本東寺百合文書)である。
これによれば、拝志庄以下一六ヵ所は八条女院領及び八条女院の女房、民部卿(藤原顕頼)三位局と藤原惟方(顕頼の子)卿弁局の二人が相伝する地であったが、これを興善院に寄進した上で、弁局に実質的な庄務権(下司職の立場)を認めている。興善院は顕頼の建立になるが、顕頼はその母が鳥羽天皇(院)乳母、典侍悦子であったことから天皇の信任を受けていた。また、この下文によれば、その娘が鳥羽皇女八条女院(子内親王)の女房として仕えていたことがわかる。こうした関係から興善院は早くから鳥羽天皇(院)にゆかりのある洛南、
右のような事情から、末寺としての興善院(領)を含む安楽寿院(領)が八条院領の一として後宇多院に伝領され、当庄が院によって東寺へ施入される根拠となったのであろう。
鎌倉時代末正和五年(一三一六)九月一八日付僧禅心契状は、拝志庄について「如禅心相伝長承嘉禄古帳者、或四拾町余、或三十六町余也」としている。嘉禄の古帳とは嘉禄二年(一二二六)一〇月一三日付山城紀伊郡散在田畠注文をさすが、長承(一一三二―三五)の古帳は今のところ確認されていない。拝志庄三六町余あるいは四〇町余と、興善院領の一所「紀伊郡内散在水田拾壱町」との間には大きな隔りがあり、それら相互の関係は明らかでないが、建久九年(一一九八)注進の「拝志御庄九条御領田畠」(二月日付山城国拝志庄田畠坪付注文)では計一一町四段三〇〇歩(田は一〇町九段一二〇歩)、うち定田は九町七段一二〇歩でその所当は四八石六斗六升七合とあり、拝志庄の田畑は一一町余であったことが確認される。
拝師庄
はやしのしよう
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報