拝師庄(読み)はいしのしよう

日本歴史地名大系 「拝師庄」の解説

拝師庄
はいしのしよう

北は九条通、南と東は鴨川、西は天神てんじん川の旧紀伊郡北部一帯に散在分布。主殿寮とのもりよう領・大炊寮おおいりよう領・東西九条女御田とうざいくじようによごでん真幡木まはたき(現南区・伏見区)などと入組みが著しく、東九条西九条・東寺(教王護国寺)寺内・鳥羽とば(現伏見区)・竹田(現伏見区)など周辺村落からの出作で耕地が営まれる錯圃的形態の荘園。

荘名は古代の紀伊郡「拝志郷」によると思われ、「拝志庄」とも書かれる。文保元年(一三一七)一〇月日付院庁下文(東寺百合文書、以下同文書は個別文書名のみ記す)に「拝師庄本名拝志庄」とあり、東寺への施入以後は拝師庄が主に用いられている。

〔興善院領の時代〕

拝志庄の史料上の初見は承安三年(一一七三)の八条院庁下文案(白河本東寺百合文書)である。

<資料は省略されています>

これによれば、拝志庄以下一六ヵ所は八条女院領及び八条女院の女房、民部卿(藤原顕頼)三位局と藤原惟方(顕頼の子)卿弁局の二人が相伝する地であったが、これを興善院に寄進した上で、弁局に実質的な庄務権(下司職の立場)を認めている。興善院は顕頼の建立になるが、顕頼はその母が鳥羽天皇(院)乳母、典侍悦子であったことから天皇の信任を受けていた。また、この下文によれば、その娘が鳥羽皇女八条女院子内親王)の女房として仕えていたことがわかる。こうした関係から興善院は早くから鳥羽天皇(院)ゆかりのある洛南、安楽寿あんらくじゆ(現伏見区)の末寺となっていたようで、既に康治二年(一一四三)八月一九日付太政官牒案(安楽寿院古文書)でそのことがわかり、また寺領三ヵ所のうちの一に「在山城国紀伊郡内散在水田拾壱町」の存在が確認される。

右のような事情から、末寺としての興善院(領)を含む安楽寿院(領)が八条院領の一として後宇多院に伝領され、当庄が院によって東寺へ施入される根拠となったのであろう。

鎌倉時代末正和五年(一三一六)九月一八日付僧禅心契状は、拝志庄について「如禅心相伝長承嘉禄古帳者、或四拾町余、或三十六町余也」としている。嘉禄の古帳とは嘉禄二年(一二二六)一〇月一三日付山城紀伊郡散在田畠注文をさすが、長承(一一三二―三五)の古帳は今のところ確認されていない。拝志庄三六町余あるいは四〇町余と、興善院領の一所「紀伊郡内散在水田拾壱町」との間には大きな隔りがあり、それら相互の関係は明らかでないが、建久九年(一一九八)注進の「拝志御庄九条御領田畠」(二月日付山城国拝志庄田畠坪付注文)では計一一町四段三〇〇歩(田は一〇町九段一二〇歩)、うち定田は九町七段一二〇歩でその所当は四八石六斗六升七合とあり、拝志庄の田畑は一一町余であったことが確認される。


拝師庄
はやしのしよう

古代の拝師郷(和名抄)内に成立した荘園で、字拝師はいしに比定される。立荘時期は不明だが、後代の史料に「法勝寺領拝師庄」とみえることから推測して白河天皇の御願寺法勝ほつしよう(跡地は現京都市左京区)建立時に、寄進された荘園の一つと思われる。その後は大覚寺統の荘園として伝領されたとみえ、嘉元四年(一三〇六)昭慶門院御領目録(竹内文平氏所蔵文書)

<資料は省略されています>

とあって、近接した大門だいもん村・榎原えばら庄とともに本家を皇室(昭慶門院)とする恩徳おんとく院領であった。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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