拝師郷
はやしごう
「和名抄」所載の郷。高山寺本に「波世之」、東急本・刊本に「波也之」と訓ずる。郷域は現野々市町上林・中林・下林を含む手取川扇状地東側から扇央部東半にかけての地区に比定される。推定郷域内の野々市町末松には古墳―平安期の末松遺跡や末松古墳、奈良時代前期の創建と考えられている末松廃寺があり、古代の北加賀地方において重要な位置を占めていたことがわかる。このほか野々市町上林地区から鶴来町安養寺・柴木・部入道地区にまたがって、平安後期の開発領主の館跡や集落跡を含む安養寺遺跡群も所在する。
拝師郷
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「和名抄」諸本ともに「波也之」と読む。同書名博本は「ハヤシ」と訓を付す。平城宮跡出土木簡に「阿波国□□郡拝師郷」とある。ただし「那賀郡林郷」という木簡も出土しているので確実とはいえない。「阿波志」は「今廃有西林東林二村」として現阿波町林を中心とした地としている。また「阿府志」は「西林東林伊沢久千田勝命アタリハヤシノ県也」としている。比定地を「阿府志」のほうがやや広くとっているが、両者とも林を拝師郷の遺称とし、その広がりを吉野川沿いの平野地帯の日開谷川西岸の阿波郡西端部分に求めている。
拝師郷
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「和名抄」高山寺本に「波也之」と訓ずる。古代の拝師郷については他に史料がないが、当郷に属する丹後一の宮籠神社(現宮津市)境内経塚から、「南閻浮提大日本国山陰道丹後国 与謝郡拝師郷溝尻村(下略)」と刻銘があり、文治四年(一一八八)二月および同年三月の年紀を有する二個の経筒が出土している。
「丹後国風土記」逸文には、天椅立(現宮津市)の物語に「与謝の郡、郡家の東北の隅の方に速石の里あり」と記し、丹後国田数帳には、
<資料は省略されています>
とあって、印鎰社・庁次など国府に関係のある土地であることを示唆している。
拝師郷
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「和名抄」所載の郷。東急本の訓は「波也之」。拝師郷は全国で一〇例余が知られ、このうち讃岐国山田郡の拝師郷でも、諸本の訓は「波也之」とし、別に「林郷」とも表記する。「延喜式」神名帳には、礪波郡七座の内に「林神社」がみえ、同社は宝暦九年(一七五九)の礪波郡社号帳(上田家文書)に、林村(現砺波市)の産土神で若林郷の惣社と伝える林神社に該当すると考えられる。また、「朝野群載」康和五年(一一〇三)六月一〇日条に、高瀬・鵜坂・白鳥・速川各社とともに林神社に神祇官から使いが派遣された記事がみえる。
拝師郷
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「和名抄」にみえるが、高山寺本・刊本とも訓を欠く。同書に他の拝師郷を「波也止」と訓ずるところに従う。
位置について「大日本史」は「今上林村在
郡東
」と述べる。上林谷の室谷神社(現綾部市五津合町)の由緒に「当社は初め拝師郷畑川村に鎮座」と記される。
拝師郷
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「和名抄」にみえる。高山寺本・刊本とも訓を欠くが、同書は丹後国与謝郡ほかの拝師郷を「波也之」と訓じるのでこれに従う。
現福知山市の西部を流れる和久川中流右岸に拝師の地名が伝わり、郷域は当地から西方和久川流域に比定される。
拝師郷
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「和名抄」高山寺本の表記による。東急本は「林」と記す。両本とも用字は異なるが「ハヤシ」の訓を付す。元来は「林」であったのが、「続日本紀」和銅六年(七一三)五月二日条の制によって、地名を好字で表記することになったため「拝師」と表記されたのであろう。
拝師郷
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「和名抄」東急本には「波也之」と訓を付す。平城宮跡出土木簡に「山田郡林郷」とある。天平七年(七三五)作成の弘福寺領山田郡田地図(多和文庫蔵)に描かれる大和国弘福寺(川原寺、跡地は現奈良県高市郡明日香村)の寺領は当郷内にあった。
拝師郷
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「和名抄」に「拝師」と記され、訓を欠く。弘安大田文に「林十一丁」とある。「新編常陸国誌」に「按ズルニ、今ノ新治郡上林村、下林村コレナリ」とあり、現新治郡八郷町上林・下林の一帯に比定する。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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