江戸時代、飢饉(ききん)・水難・火災などの天災に際し、困窮民を救済する目的で建てられた施設。同様な施設は、すでに1421年(応永28)室町幕府の将軍足利義持(あしかがよしもち)によって京都五条河原に建てられた例などが知られる。江戸時代には、小屋の規模が数千人を収容するほど大きくなり、幕府をはじめ寺社や個人によっても建てられた。江戸の場合、1742年(寛保2)の隅田(すみだ)川の洪水では新大橋西詰や両国橋際に、1836、37年(天保7、8)の飢饉では神田佐久間(さくま)町一丁目地先などに、1855年(安政2)の大地震では幕府による浅草雷門(かみなりもん)前はじめ5か所と上野輪王寺宮(りんのうじのみや)による救小屋が設置され、被災民を収容して食糧を与えた。施行米(せぎょうまい)など救援物資は、江戸の町会所や豪商などから供出させることもあった。また、救小屋では、収容民を稼ぎに出して賃金を取りまとめ、出所する際に復興資金として渡すことも行っている。1866年(慶応2)の江戸市中の打毀(うちこわし)では、蜂起(ほうき)した民衆が救小屋の設置を要求した。
[馬場 章]
『南和男著『幕末江戸社会の研究』(1978・吉川弘文館)』▽『南和男著『江戸の社会構造』(1969・塙書房)』
近世に飢饉,火災,風水害などの災害時,貧窮の罹災者を収容する目的で建てられた仮小屋。また,災害に際して罹災者が集中的に出た都市社会では,罹災窮民の飢えを補うため,施行粥などの炊出し小屋もたびたび設置され,近世初頭にはこれも御救小屋と称された。しかし,貧窮者の市街浮浪を抑止するため,その全生活を管理する御救小屋と,飯米の一時的施与のみを目的とする炊出し小屋とはその社会的機能を異にするため,後年ははっきり分化した。江戸では,町会所(1792(寛政4)設立)によって,御救小屋がたびたび設けられた。その多くは“江戸の花”とされる火事の類焼窮民を収容するものであった。御救小屋は,公の救済がなされていることを示すシンボリックな存在であり,人々は御仁恵御救小屋と称した。しかし,小屋入りは町人別に限られ,一日も早く再び店持となって町人社会へ復帰するための元手銭稼ぎが強制されるなど,厳しいものであった。
執筆者:北原 糸子
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
年齢を問わず、多様なキャリア形成で活躍する働き方。企業には専門人材の育成支援やリスキリング(学び直し)の機会提供、女性活躍推進や従業員と役員の接点拡大などが求められる。人材の確保につながり、従業員を...
10/29 小学館の図鑑NEO[新版]動物を追加
10/22 デジタル大辞泉を更新
10/22 デジタル大辞泉プラスを更新
10/1 共同通信ニュース用語解説を追加
9/20 日本大百科全書(ニッポニカ)を更新