東南方に
円錐状の南宮山は神奈備山に比定され、本社の南二〇〇メートルほどのところに磐座の大岩があった。
一方、天平二〇年(七四八)一一月一九日付の小治田藤麻呂解(東南院文書)に載る敢朝臣安麻呂は阿拝郡大領であり、貞観八年に阿閇福子が阿閇郡・
保安二年(一一二一)一二月の伊賀国封米返抄案(根津美術館所蔵文書)に南宮三昧料として封米四石の布施、成恒名封米返抄案(東大寺文書)には南宮御宝前最勝講に稲三〇束の布施が記され、永万元年(一一六五)六月の神祇官諸社諸年貢注文(永万文書)には「南宮社 米五石 贄少々 佐々社」とある。南宮社は当社のことで、下って室町末期頃の「大日本国一宮記」や文亀三年(一五〇三)の「延喜式神名帳頭註」には「敢国神社 号南宮 金山姫命 伊賀国阿閇郡」とある。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
三重県伊賀(いが)市一之宮(いちのみや)に鎮座。敢国津神(あへのくにつかみ)を主祭神とし、少彦名命(すくなひこなのみこと)、金山比咩命(かなやまひめのみこと)を配祀(はいし)する。敢国津神は崇神(すじん)朝の四道将軍の一人で、阿閇臣(あへのおみ)の祖、大彦命(おおひこのみこと)に比定されている。当社の北方には、大彦命の墓と伝えられる三重県下最大の前方後円墳(5世紀初頭)御墓山(みはかやま)古墳(国の史跡)もあり、伊賀国(三重県)阿拝(あへ)郡を根拠地とする古代豪族、阿閇(あへ)(敢(あへ))氏の奉斎した神社であろう。延喜(えんぎ)式内社で、伊賀国一宮。1579年(天正7)と1581年の天正(てんしょう)伊賀の乱(織田信長の伊賀攻略戦)で一時衰退したが、慶長(けいちょう)年間(1596~1615)に津(つ)藩主藤堂高虎(とうどうたかとら)によって復興され、伊賀地方の中心神社として繁栄した。1871年(明治4)に国幣中社。例大祭(12月5日)の獅子神楽(ししかぐら)は県の無形民俗文化財。
[渡辺 寛]
三重県伊賀市一之宮に鎮座。敢国津神(あえのくにつかみ)を主神とし,少彦名命,金山毘売命を配祀する。敢国津神は,崇神天皇のときに派遣されたと伝えられる四道将軍の一人で,阿閇臣(あへのおみ),伊賀臣らの祖大彦命のことといい,神社の北約1kmに大彦命の墓と伝承される前方後円墳があり,伊賀国阿閇郡の開拓神であろう。873年(貞観15)正五位下に叙され,延喜の制で国幣の大社,のち伊賀国の一宮とされる。中世,南宮菩薩とよばれ,近世藤堂氏が藩主として入国以来あつく崇敬し,藤堂高虎は1614年(慶長19)に107石余の黒印領を寄進,祭事も復興した。1871年国幣中社となる。例祭12月5日,県無形民俗文化財獅子神楽がある。
執筆者:鎌田 純一
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