日本大百科全書(ニッポニカ) 「文士劇」の意味・わかりやすい解説
文士劇
ぶんしげき
作家、劇評家、新聞記者、画家など、専門俳優以外の文人によって、趣味的に演じられる演劇。素人(しろうと)芝居の一種。1890年(明治23)1月、東京・小石川(現文京区)の佐藤黄鶴(こうかく)邸の仮設舞台で、尾崎紅葉(こうよう)、江見水蔭(えみすいいん)、川上眉山(びざん)、巌谷小波(いわやさざなみ)、石橋思案(しあん)らが、水蔭作の史劇『増補太平記』ほかを演じた硯友社(けんゆうしゃ)劇がその最初とされる。文士劇は9世市川団十郎の没後に流行し、1905年(明治38)4月、牛込清風亭での易風(えきふう)会(文芸協会の前身)による雅劇『妹山背山(いもやませやま)』は、早稲田(わせだ)派の文士劇ともよばれた。同年5月歌舞伎(かぶき)座で、新聞記者で劇評家の杉贋阿弥(がんあみ)、岡鬼太郎、岡村柿紅(しこう)、岡本綺堂(きどう)、右田寅彦(みぎたのぶひこ)、栗島狭衣(くりしまさごろも)、伊坂梅雪(いさかばいせつ)、小出緑水(こいでりょくすい)らが若葉会を結成して綺堂作『天目山(てんもくざん)』ほかを上演し評判となった。翌06年には毎日新聞演劇会をはじめ、その後も俳人たちの合槌社(あいづちしゃ)、坂本猿冠者(さるかじゃ)の通話会などが生まれた。大正期も各派が合同した演芸通話会により続けられたが、1934年(昭和9)10月、文芸春秋社の愛読者大会で菊池寛(かん)作・演出の『父帰る』を、久米(くめ)正雄、川口松太郎、今日出海(こんひでみ)らで上演、第二次世界大戦後は52年(昭和27)に復活し77年まで毎年続けられた。記念行事や会合の余興に、文士たちの余技としてご愛嬌(あいきょう)に演じられることが多いが、硯友社、若葉会の文士劇には、演劇改良、創作史劇上演、劇壇革新の意図が込められていた。
[藤木宏幸]