文室綿麻呂(読み)フンヤノワタマロ

デジタル大辞泉 「文室綿麻呂」の意味・読み・例文・類語

ふんや‐の‐わたまろ【文室綿麻呂】

[765~823]平安初期の公卿弘仁元年(810)薬子くすこの変上皇方について捕らえられたが、のちに許され、坂上田村麻呂とともに蝦夷えぞ征討武功をあげた。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「文室綿麻呂」の意味・わかりやすい解説

文室綿麻呂
ふんやのわたまろ
(765―823)

平安前期の武将、官人。三室朝臣(みむろのあそん)大原(おおはら)の子。近衛将監(このえしょうげん)、出羽権守(でわのごんのかみ)、播磨(はりま)守、右京大夫(たいふ)、左大舎人頭(ひだりのおおとねりのかみ)などを歴任。809年(大同4)三山(みやま)朝臣と改め、さらに文室真人(まひと)に改姓、兵部大輔(たいふ)となる。翌年薬子(くすこ)の変では、初め平城(へいぜい)上皇側にあったため禁固されるが、武芸を惜しむ坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)の献言により許されて参議正四位上となり、さらに大蔵卿(おおくらきょう)陸奥出羽按察使(むつでわあぜち)を兼ねた。811年(弘仁2)と813~814年には征夷(せいい)将軍となり、陸奥出羽両国兵1万余人を動員して尓薩体(にさて)、幣伊(へい)両村の蝦夷(えみし)を攻略した。この時期に両国の兵制改革、百姓賑恤(ひゃくせいしんじゅつ)、蝦夷移配対策を種々献策して奥羽社会の律令(りつりょう)化を図った。818年中納言(ちゅうなごん)に進んだ。承和(じょうわ)の変(842)で左降された参議検非違使(けびいし)別当文室秋津は弟である。

[弓野正武]

『高橋富雄著『蝦夷』(1963・吉川弘文館)』『新野直吉著『古代東北の開拓』(1969・塙書房)』

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改訂新版 世界大百科事典 「文室綿麻呂」の意味・わかりやすい解説

文室綿麻呂 (ふんやのわたまろ)
生没年:765-823(天平神護1-弘仁14)

平安前期の官僚。文室浄三の孫。三諸大原の子。795年(延暦14)三諸綿麻呂として従五位下に叙され,その後,近衛将監,近江大掾,出羽権守,近衛少将,播磨守,侍従,中務大輔,右兵衛督,右京大夫,左大舎人頭をへて,809年(大同4)に三山朝臣を賜り,左兵衛督,大膳大夫となり,さらに文室真人を賜って兵部大輔となった。810年(弘仁1)薬子の変のとき,はじめ平城上皇に従い,禁固されていたが,綿麻呂が武勇の人であるとする坂上田村麻呂の願い出により許され,参議となり,上皇が東国へ向かう道を阻止する軍に参加した。翌年征夷将軍となり,蝦夷の拠点を攻撃して帰京し,従三位となった。その後も陸奥出羽按察使を兼任し,816年右近衛大将,翌年兵部卿をへて,818年中納言となった。
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百科事典マイペディア 「文室綿麻呂」の意味・わかりやすい解説

文室綿麻呂【ふんやのわたまろ】

平安前期の官僚。810年薬子の変のとき,はじめ平城上皇に従い禁固されていたが,坂上田村麻呂の願い出により許され蝦夷平定に参加した。翌年征夷将軍となり,北方の蝦夷を攻撃し,水害にあった志波城を移転して徳丹城を築き,平定を完了した。この時以後,蝦夷の経営が民政重点に転換した。その後,陸奥出羽按察使を兼任し,816年右近衛大将,翌年兵部卿を経て,818年中納言に昇進した。823年没,享年59歳。

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朝日日本歴史人物事典 「文室綿麻呂」の解説

文室綿麻呂

没年:弘仁14.4.24(823.6.6)
生年:天平神護1(765)
平安前期の公卿。三諸大原の長男。大同4(809)年,三山ついで文室に改姓。平城上皇に仕えていたことから弘仁1(810)年,薬子の変では捕らえられたが,上皇方の討手を命じられた坂上田村麻呂が,「武芸の人」で「頻りに辺戦を経」ているとの理由で同行を奏請して罪を許され,田村麻呂と共に上皇の東国行きを阻止した。事件後,その功により参議に任じられた。田村麻呂没後の蝦夷征討事業を受け継ぎ,弘仁2年蝦夷の反乱に際しては兵2万6000を率いて爾薩手,幣伊の2村を平定する一方,田村麻呂の造営した志波城(斯波城とも。盛岡市)が水害をうけやすいとして移転を建言するなど,東北経営に活躍した。子の巻雄も武人としてその名を知られていた。

(瀧浪貞子)

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「文室綿麻呂」の意味・わかりやすい解説

文室綿麻呂
ふんやのわたまろ

[生]天平神護2(766).奈良
[没]弘仁14(823).4.26. 京都
平安時代初期の武将,廷臣。智努王 (文室浄三) の孫。三諸大原の子。大同3 (808) 年左大舎人頭。翌年三山朝臣,左兵衛督,同年6月文室真人の姓を賜わった。同5年薬子の変には,平城 (へいぜい) 上皇方について禁錮となり,坂上田村麻呂の献言で許された。のち参議となり,大蔵卿,陸奥出羽按察使を兼ねた。弘仁2 (811) 年蝦夷の反乱を征夷大将軍となって平定し,従三位に進み,蝦夷経営に意を用い左近衛大将,兵部卿,中納言となった。

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「文室綿麻呂」の解説

文室綿麻呂
ふんやのわたまろ

765~823.4.24

平安初期の東北経営に活躍した武将・公卿。文室浄三(きよみ)(智努王)の孫。三諸(みもろ)大原の子。はじめ三諸朝臣,809年(大同4)三山朝臣,さらに文室朝臣。810年(弘仁元)の薬子(くすこ)の変で平城上皇側について拘禁されたが,坂上田村麻呂の奏請で許され,参議となって上皇の東国入りを阻止。翌年征夷将軍となり陸奥国の征夷事業を完了させ,従三位に昇った。818年中納言となる。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「文室綿麻呂」の解説

文室綿麻呂 ふんやの-わたまろ

765-823 平安時代前期の公卿(くぎょう)。
天平神護(てんぴょうじんご)元年生まれ。文室大原の長男。文室秋津の兄。大同(だいどう)5年参議。同年大蔵卿,陸奥出羽按察使(むつでわあぜちし)に任じられ,蝦夷(えぞ)の平定に功をたてる。右近衛(うこんえの)大将,兵部卿などをへて,弘仁(こうにん)9年中納言にすすむ。従三位。弘仁14年4月24日死去。59歳。

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旺文社日本史事典 三訂版 「文室綿麻呂」の解説

文室綿麻呂
ふんやのわたまろ

765〜823
平安初期の公卿
薬子 (くすこ) の変(810)で平城上皇側についたため捕らえられたが,許され坂上田村麻呂とともに乱の鎮圧に功を立てた。811年征夷将軍として蝦夷 (えみし) を征討。818年中納言に進んだ。

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