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内田康哉(読み)うちだこうさい

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

内田康哉
うちだこうさい

[生]慶応1 (1865).8.1. 肥後
[没]1936.3.12. 東京
明治・大正・昭和期の外交官。1887年帝国大学卒業後外務省に入り,アメリカ合衆国,イギリス,国在勤後,通商局長,政務局長,総務長官などを歴任。その後,駐清公使,駐オーストリア大使,駐アメリカ大使を務め,1911年第2次西園寺公望内閣の外務大臣に就任した。さらに 1916年駐ロシア大使,1925年枢密顧問官(→枢密院),1931年南満州鉄道株式会社総裁などの要職につき,この間に原敬内閣と斎藤実内閣の外相に就任。明治から昭和にいたる 3時代の外相として,外務省の中枢に位置した。しかし 1932年の満州国承認,1933年の国際連盟脱退を断行するなど,しだいに親軍的色彩を強め,「国を焦土と化すとも満州国承認を行なう」と議会で答弁し「焦土外交」と称された。伝記に『内田康哉』(内田康哉伝記編纂委員会・鹿島平和研究所編,1969)がある。

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百科事典マイペディアの解説

内田康哉【うちだこうさい】

外交官。肥後(ひご)国八代郡出身。帝大法科卒後外務省に入り,公・大使を歴任。1911年第2次西園寺内閣の外相。以後満鉄総裁,枢密顧問官につく。1932年斎藤実内閣の外相となり,満州国承認,国際連盟脱退などの強硬外交策をとり,幣原喜重郎協調外交に対して焦土外交と評された。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説

内田康哉 うちだ-やすや

うちだ-こうさい

内田康哉 うちだ-こうさい

1865-1936 明治-昭和時代前期の外交官,政治家。
慶応元年8月10日生まれ。駐米大使などをへて明治44年第2次西園寺内閣の外相。昭和6年満鉄総裁。翌年斎藤実(まこと)内閣の外相となり,「日本は焦土となっても満州をまもる」として満州国を承認し,国際連盟脱退を断行した。昭和11年3月12日死去。72歳。肥後(熊本県)出身。帝国大学卒。名は「やすや」ともよむ。

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世界大百科事典 第2版の解説

うちだこうさい【内田康哉】

1865‐1936(慶応1‐昭和11)
外交官。熊本県出身。1887年帝国大学法科大学を卒業,外務省に入る。外務省政務局長,同総務長官を歴任,1901年以降駐清公使,駐オーストリア,駐米各大使を務める。この間07年に男爵,11年に子爵となる。同年第2次西園寺公望内閣の外相となり,辛亥革命に対処するとともに第3次日露協約を結ぶ。16年駐露大使となったが,ロシア革命で帰国。18年原敬内閣の外相になり,シベリア出兵に反対し,ワシントン会議に対処した。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

内田康哉
うちだやすや
(1865―1936)

明治から昭和前期の外交官、政治家。名は一般に「こうさい」と読まれる。熊本藩士の子で、1887年(明治20)帝国大学法科大学卒業、外務省に入る。在外勤務、農商務省課長を経て1897年外務省通商局長となる。以後政務局長、総務長官、清(しん)国公使、外務次官を歴任し、1907年(明治40)男爵。欧米在勤ののち、1909年子爵となり、第二次西園寺公望(さいおんじきんもち)内閣の外相に就任。1916年(大正5)ロシア大使、その後原敬(たかし)、高橋是清(これきよ)、加藤友三郎内閣の外相を務め、伯爵となる。1926年枢密顧問官。1928年(昭和3)パリ不戦条約会議全権となるが、その条約文中の「其(そ)ノ各自ノ人民ノ名ニ於(おい)テ」が国内で問題となり、顧問官を辞任する。1930年貴族院議員、翌年満鉄総裁。満州事変では関東軍に協力し、1932年斎藤実(まこと)内閣の外相に就任すると、「国を焦土にしても譲らない」として「満州国」の承認を強行、「焦土外交」の異名をとった。翌年、国際連盟脱退を推進したが、昭和11年3月12日死去した。[岡部牧夫]

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