新丁(読み)しんちよう

日本歴史地名大系 「新丁」の解説

新丁
しんちよう

[現在地名]四日市市新町新々しんしん町・北条きたじよう

西は浜新はまじん町、北ははま町、東は川を隔てて中納屋なかなや町などがある。四日市町の南東に位置し、新開地であるため町名の変動がはなはだしい。旧版「四日市市史」によれば、寛文年間(一六六一―七三)には、南部を新丁、北西部を日永ひなが町、日永町から西の下新町にかけてを早船はやふね町といい、その後もしばしば名称が変化したが、天保年間(一八三〇―四四)以降はすべてを新丁と称したという。


新丁
しんちよう

[現在地名]高梁市弓之町ゆみのちよう

鉄砲てつぽう丁とみなみ町の間にあった屋敷町。明治維新後、弓之町と改めた。正保年中(一六四四―四八)作成の松山城絵図(国立公文書館蔵)には「足軽町」とみえ、元禄(一六八八―一七〇四)初年の改では「新町、長五丁四十四間、家数八十七軒」とある(御家内之記「水谷史」芳賀家蔵)。藩主石川総慶時代には「新長町」とよばれ、家数五九(うち明家三)ほか、新長町長屋一(一一人居住、明家三)および御先手長屋四があった(「松山城下絵図」三重県亀山市立図書館蔵)。延享元年(一七四四)には給人屋敷四八のほか一棟長屋六となっており(「松山家中屋敷覚」高梁市立図書館蔵)、嘉永―安政(一八四八―六〇)頃には家数二九のほか一棟長屋五があり、三四、五人の家臣が居住していた(昔夢一斑)


新丁
しんちよう

[現在地名]上山市新丁・大石おおいし二丁目

寛永元年(一六二四)能見松平氏が羽州街道の道筋を変更し、新道筋の下河原しもがわらとよばれる地域に下士や足軽などの屋敷を設けたのが始まりといわれる。元禄一一年(一六九八)の明細帳(三浦文庫)十日とおか町の項に「新丁其以前は御足軽の由、土岐山城守様御代寛文二年より御町に罷成、村高之儀は十日町今に御座候。御足軽衆を只今の御足軽町其外方々へ引分申候」とある。


新丁
しんちよう

[現在地名]五戸町 新丁

五戸町の南東端に位置し、新町の南に続く。奥州街道筋にあたり、街地の南の出入口となる。享和三年(一八〇三)仮名付帳に新丁とあり、家数は二九。うえ町に属する。明治初年の「新撰陸奥国誌」に「長一丁十間、幅五間、家数二十六軒、小店あり」と記す。


新丁
しんちよう

[現在地名]鈴鹿市神戸かんべ六丁目

鍛冶かじ町の西にあり、神戸町の西の外れの町。享保一七年(一七三二)町の長さ一町二八間、戸数一八(九皐抄)。明治二年(一八六九)にも新丁戸数三五(伊藤家文書)と書かれているが、東方の新町とまぎらわしいため、明治五年九月西にし町と改められた。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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