新井章吾(読み)あらい・しょうご

朝日日本歴史人物事典 「新井章吾」の解説

新井章吾

没年:明治39.10.16(1906)
生年:安政3.2.12(1856.3.18)
明治時代政治家下野国都賀郡吹上村(栃木市吹上町)の豪農四平治の次男。地元で漢学,英学を学ぶ。吹上村戸長,栃木県会議員を歴任。自由民権運動参加し,国会開設運動に奔走する。明治12(1879)年『栃木新聞』を創刊。18年大井憲太郎らと大阪事件を企て未遂に終わる。22年憲法発布の大赦で出獄し,政界復帰をはたす。23年衆院議員に当選し,以来7回当選。星亨らとの対立から25年に自由党を脱党し,大井憲太郎らと東洋自由党を結成する。内地雑居に反対し,大日本協会などの対外硬運動にも参加した。その後,諸会派を転々とし,33年立憲政友会に参加した。<参考文献>大町雅美『新井章吾』

(小宮一夫)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「新井章吾」の解説

新井章吾 あらい-しょうご

1856-1906 明治時代の政治家。
安政3年2月12日生まれ。栃木県会議員となるが,東京にでて自由民権運動に参加。明治18年大井憲太郎らの大阪事件に連座して投獄される。出獄後,23年衆議院議員(当選7回)。自由党,東洋自由党,憲政党,政友会などに属した。明治39年10月16日死去。51歳。下野(しもつけ)(栃木県)出身

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世界大百科事典(旧版)内の新井章吾の言及

【大阪事件】より

…大阪で同志が逮捕されたのでこう呼ばれる。壬午軍乱(1882),甲申政変(1884)で朝鮮における親日派の後退を見た自由党左派の首領大井憲太郎は,1885年11月小林樟雄,磯山清兵衛,新井章吾,稲垣示らと謀り,壮士を率いて渡韓,事大党(閔妃政権)を倒して独立党政権を樹立する計画を進めたが,磯山の変心で発覚し一同逮捕された。計画そのものはずさんで関係者の意図もまちまちであったが,おおよそのところは朝鮮独立を達成することで国民の眼を外に転じ,刺激を与えることで内政改良へと向かわせようという点にあった。…

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出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」