中国,安徽省徽州府出身の商人で,山西商人とならんで,明・清時代の商業界を二分する勢力であった。新安は徽州の古名である。彼らの活動は古くから知られているが,明代中期からいっそう活発となり,開中法(塩法)の運司納銀制への転換を契機に,塩商としての地位を強化し,揚州塩商の中核となった。彼らの業務は,塩商のほか,穀物商,絹織物商,綿布商,茶商から,海外貿易,金融,手工業経営にまでおよび,数種の営業を兼ねる者もあったが,主たる活動は流通部門にあった。また,彼らの活動範囲は中国全土はいうまでもなく,とおく海外にまで広がっていた。経営形態は地縁的・血縁的紐帯を重視し,政界と結びつく政商を典型とするが,一族のなかからも多数の高級官僚を出している。その代表的存在は揚州に居住した塩商で,ライバルの山西商人とともに,巨富を誇った。彼らはその財力をもって,学術と芸術の保護者となり,絢爛たる文明を揚州の地に花咲かせた。揚州塩商の全盛期は清朝の乾隆年間(1736-95)であるが,19世紀にはいると,経済界の不況がはじまり,塩業が不振におちいると,没落する者があいついだ。一部は資本を典当業(質屋)にうつして生きのび,江南の金融界に確固たる地位を占めたが,大半は,彼らの支柱であった清朝の崩壊と運命をともにした。ただし,揚州の塩商は1949年,人民共和国の成立まで存続したが,その勢力は昔日のものではなかった。
執筆者:寺田 隆信
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中国、安徽(あんき)省徽州府出身の商人。北方の山西商人と並んで、明(みん)・清(しん)時代の中国商業界に二大勢力をなした。彼らは、徽州府の古名である新安郡の名にちなんで、一般に新安商人とよばれる。初め明朝政府の塩の専売に伴い、塩商として江淮(こうわい)の拠点、揚州に進出して巨万の財をなし、かたわら同族の合資のもとに米穀、綿花、生糸、絹織物、陶磁器、塩、茶、鉱山など各種の企業を営み、華中を中心に華北、華南に及び、ほとんど全中国に活動を展開した。典当業(質屋)は多くその独占するところであった。また彼らのうちからは政界にも多数の官僚を送り出し、政界と結託して明末清初の経済界に活躍した。しかし、18世紀なかば以後、清朝政府の捐納(えんのう)政策による過重な寄付負担に加え、私塩の横行による塩業の不振から、彼らのうちにも没落する者が続出し、その商業界での支配的地位を失い、しだいに浙江(せっこう)財閥にとってかわられた。
[佐久間重男]
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明後半から清前半にかけて,江南を中心に中国経済界で主要な地位を占めた安徽(あんき)省徽州出身の商人層。新安は徽州の古名。塩商資本をもとに発展して諸般の商行為に従い,都市,農村をとわず全国的活動を行った。江南では山西商人をしのぎ,海外との交易にも活躍した。清中期以後は塩商負担の増大や私塩増加などで衰えた。
出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
出典 旺文社世界史事典 三訂版旺文社世界史事典 三訂版について 情報
…ところが中期になると,流通経済のいっそうの発展にともない,開中法に変更が加えられ,辺境に糧米を納める代りに,直接産塩地(おもに両淮(りようわい)地方)の主務官庁に銀を納入して,販売許可を得る方法が主流となった。そうなると従来の山・陝商人の優位が崩れ,これに対抗する形で徽州(新安)商人が進出し,明代後半の経済界を二分する大きな勢力をもつにいたった(新安商人)。これらの大商人たちは,塩の販売を通じて力を得た者が多いが,その取り扱う商品は塩だけにとどまらず,米,綿,絹,茶,木材など多岐にわたり,その活動地域は全国にまたがっている。…
※「新安商人」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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