新田荘(読み)にったのしょう

百科事典マイペディア 「新田荘」の意味・わかりやすい解説

新田荘【にったのしょう】

上野国新田郡のほぼ全域を占める荘園。現群馬県新田郡全域と太田市などを含む。1157年,新田義重が開発した19郷を花山院家に寄進して立荘,自らは下司職(げししき)に補任された。1170年までには新たに39郷を荘域に加え,一郡規模の大荘園へと発展,この頃には山城金剛心(こんごうしん)院が本家。義重の子息らは諸郷の地頭職を分割・譲渡されて世良田氏・額戸氏・山名氏などに分立,それぞれがさらに分立して庶子家は各郷に蟠踞(ばんきょ)し,自らの郷名を名字とした。荘内には宿や市も成立して流通経済が発達,新田義貞挙兵のきっかけとなった北条高時の6万貫要求には,商人らの成長が背景にあった。義貞の死後は新田本宗家から分立した岩松氏が荘内を掌握したが,戦国期に家臣横瀬氏に実権を奪われ,新田荘は解体していった。→新田氏
→関連項目世良田

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改訂新版 世界大百科事典 「新田荘」の意味・わかりやすい解説

新田荘 (にったのしょう)

上野国の荘園で,ほぼ新田郡全域にわたり,現在の太田市,伊勢崎市の一部から成り,おもに大間々扇状地の上に立地している。源義国の子義重は,〈こかん(空閑)の郷々〉といわれる世良田など新田郡西南部の19郷を開発し,1157年(保元2)に,花山院家藤原忠雅に寄進して新田荘を成立させ,この荘の下司職に任命された。やがて,新田荘は19郷から新田郡全域に拡大された。70年(嘉応2)の土地台帳によると,19郷以外の部分は,39郷に及び,田300町2反,畠96町3反,在家248宇の規模を持っていた。義重は新田氏を称し,その子孫は荘内各郷に館を構えて勢力を張った。やがて,新田荘は新田一族の新田本宗家,世良田氏,岩松氏里見氏,額戸氏などに分割支配されるが,南北朝内乱期に新田義貞が滅亡すると,岩松氏がその支配権を継承し,戦国時代には岩松氏の家臣横瀬氏(由良氏)が台頭し,太田金山城に拠って活躍した。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「新田荘」の意味・わかりやすい解説

新田荘
にったのしょう

上野(こうずけ)国(群馬県)にあった荘園で、大間々(おおまま)扇状地上に立地し、ほぼ古代の新田郡全体(現在の太田市、伊勢崎市とみどり市の各一部)を荘域とする。1108年(天仁1)浅間山の爆発によって荒廃した新田郡南西部の地を源義重(よししげ)が開発。1157年(保元2)にこれを鳥羽(とば)上皇建立の金剛心院(こんごうしんいん)に寄進し、ここに金剛心院を本家(ほんけ)、藤原忠雅(ただまさ)(花山(かざん)院家)を領家(りょうけ)、義重を下司(げし)とする新田荘が成立した。その後1170年(嘉応2)には荘域は新田郡全体に拡大された。以後、義重の子孫新田一族の基盤となり、南北朝時代に新田義貞(よしさだ)を生み出した。1170年の新田荘目録には、水田302町、畑96町、在家248宇とある。新田義貞の滅亡後は、一族の新田岩松(いわまつ)氏が継承した。

[峰岸純夫]

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「新田荘」の解説

新田荘
にったのしょう

12世紀後半,上野国新田郡(現,群馬県太田市一帯)に成立した郡規模の荘園。本家は鳥羽上皇の御願寺である金剛心院,領家は藤原忠雅。地主である新田義重の寄進した私領を中核に,大田文にのる公田数のみで約300町の大荘園。のちに関東十刹となる長楽寺の在所世良田郷(現,太田市)は,北条氏庇護をえて得宗被官勢力の支配拠点になった。

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