日吉大社(ひよしたいしゃ)(読み)ひよしたいしゃ

日本大百科全書(ニッポニカ) の解説

日吉大社(ひよしたいしゃ)
ひよしたいしゃ

大津市坂本本町に鎮座。「ひえたいしゃ」ともよばれる。祭神は西本宮(ほんぐう)(大宮(おおみや))の大己貴命(おおなむちのみこと)、東本宮(二宮(にのみや))の大山咋命(おおやまくいのみこと)を主神とし、摂社五社をあわせて「山王七社(さんのうしちしゃ)」として知られる。『延喜式(えんぎしき)』の神名帳では日吉(ひえ)神社、名神(みょうじん)大社とあり、祭神は一座となっている。神名帳には「ひよし」の呼称もあったとされているが、『古事記』には日枝(ひえ)の字をあてている。1039年(長暦3)8月には二十二社官幣の社格に列している。

 宗教的な起源は、東本宮系の神々が神体山牛尾山(うしのおやま)、八王子山(はちおうじやま)、波母山(はもやま))頂上の磐座(いわくら)に祀(まつ)られ、山宮(やまみや)と里宮(さとみや)が営まれるという原始祭祀(さいし)に発し、西本宮は大津宮のときに天智(てんじ)天皇によって大和(やまと)(奈良県)の大神(おおみわ)の神を勧請(かんじょう)したことに始まるとされる。のち西本宮は僧最澄(さいちょう)から深い崇敬を受けて、比叡(ひえい)一山の地主神、天台一宗の護法神として、神仏習合の信仰形態を深めつつ大きな発展を遂げ、現在も全国に4000近い日吉山王系の神々が祀られている。その大きな原因の一つは、全国に散在する天台系寺院の境内鎮守として祀られ、また多くの山門領にも鎮守神として勧請されたからである。山王七社には、のち「中七社」と「下七社」が加わり、さらに中世末にはその他の末社を加えて「社内百八社」や「社外百八社」という大きな宗教組織が完成する。1571年(元亀2)9月、織田信長比叡山三塔焼打ちの際に兵火を受け、中世以前のすべての建造物は焼失したが、古絵図をみると、境内には宝塔や彼岸所(ひがんじょ)など多くの仏教的な建造物がみえる。いまの建物は、東本宮・西本宮の神殿桃山時代の建築で国宝に指定され、また各拝殿楼門、樹下(じゅげ)神社など各摂社の社殿、拝殿、石橋などがいずれも桃山から江戸初期の再建で、国の重要文化財となっている。例祭は山王祭として名高く、とくに4月12日から15日(太陰暦では卯月中(うづきなか)の午(うま)から酉(とり)の日)には、七社の神輿(しんよ)(国の重要文化財)を動座して盛大に行われる。なお、七基の神輿は延暦(えんりゃく)寺の僧兵によってたびたび強訴(ごうそ)のため利用されたことで名高い。旧祠官(しかん)に樹下家と生源寺(しょうげんじ)家がある。

[景山春樹]

『景山春樹著『神体山』(1971・学生社)』


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