日朝交渉史(読み)にっちょうこうしょうし

日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

日朝交渉史
にっちょうこうしょうし

日本と朝鮮の関係は、最近の言語学、歴史学、文化人類学、民俗学など諸分野の研究が進歩するにつれ、東アジア諸地域文化交流のなかで多角的に探究され、戦前の既成概念を大きく改めるようになってきている。視点を新たにした、日本の『古事記』『日本書紀』や朝鮮の『三国史記』『三国遺事』(さんごくいじ)などの古典批判や、中国古文献の研究も進み、遺物・遺跡の発見による検証も深まってきた結果である。[中村栄孝]

倭との関係

中国文献(『魏志東夷伝』(ぎしとういでん)など)に基づく日本と朝鮮との関係を追究することは限界にきている。紀元前後から「倭(わ)」が朝鮮北部の中国属領を経て中国の首都に朝貢し、朝鮮南部には金属資源を求めて触手を伸ばした。北部にできた高句麗(こうくり)王国は、4世紀に入ると南下してきた。また、中・南部には馬韓(ばかん)に百済(くだら)王国、辰韓(しんかん)に新羅(しらぎ)王国が興り、いずれも中国に朝貢して冊封(さくほう)を受け、3国はそれぞれ勢力を競った。倭は、南部にあった弁韓(べんかん)の狗邪韓(くやかん)国(任那加羅(にんなから))に拠点を得て、3国に対抗し、同じく中国に朝貢して冊封を受け、その権威を借りて文物の摂取に努めた。日本の古墳文化発展の時期に相当する。倭王国形成の過程については諸説が出ていて、いまだ定説はない。朝鮮国家の日本での分国形成に由来するとか、北方騎馬民族の移動によるという着想もある。[中村栄孝]

古代日本の朝鮮観

日本に大和(やまと)政権の統一支配が形成されるに伴い、日本が高句麗、百済、新羅を朝貢国とする伝統的朝鮮観の中核ができて『古事記』『日本書紀』のなかに古伝承として定着した。新羅は、高句麗と結んで日本の勢力を破り、唐の勢力を導入して、百済を攻め滅ぼし、百済の復興を策動する日本を退けた。ついで高句麗を滅ぼして、7世紀に統一国家を建設し、日本との修好を続けながらも、その地位を高め、対等儀礼の形成に努めた。日本は、6~7世紀に朝鮮進出工作に挫折(ざせつ)してからも、これを朝貢国とみる観念を固く持続し、後世長く公式外交を開かなかった。10世紀のころ、後百済(ごひゃくさい)王国の要請も、高麗(こうらい)王国の希望も拒否している。[中村栄孝]

東アジア通商圏の一環

同じころ、中国への遣使をやめ、唐・宋(そう)の交替後は、中国商船の高麗、日本への往来により、経済的、文化的交流があり、12世紀になると、受動的関係から転じて高麗、宋へ商船の進出が始まった。南宋と高麗・日本との海上交通による接近は、13世紀に、中国本土の支配を目ざすモンゴルに、高麗征服に続いて2回の日本攻撃(元寇(げんこう))を断行させた。元の成立で東アジア通商圏が形づくられても、外交関係は断絶したまま、鎌倉幕府による武家の国防活動も反映し、日本商船の無秩序な進出となり、14世紀後半は、朝鮮、中国の沿海で「倭寇(わこう)」の海賊的行為が展開された。日本では、1367年(正平22・貞治6)に、元および高麗から倭寇禁制の要請を受け、足利(あしかが)政権が朝廷から一任されて、天竜(てんりゅう)寺僧の名義でこれに応じた。武家政権が外交権を接収する端緒になった。[中村栄孝]

交隣関係――日本国王と朝鮮国王

中国では明(みん)が興り、元を打倒して漢人支配を回復すると、李成桂(りせいけい)(太祖)が親明政策をとって朝鮮王朝(李氏朝鮮)を建て、対日交隣政策を国是とし、日本では足利義満(よしみつ)がこれに応じた。この前後に、義満と朝鮮王太宗(たいそう)とは、それぞれ明から冊封を受けて、日本国王と朝鮮国王になり、対等の国交が成立した。足利政権は、伝統的観念に基づく批判のため、儀礼上に特例をつくりながらも、宮廷から外交権を接収し、対外的元首としての地位を持続した。これは徳川政権に継承されて明治政府の外交権回収まで続いた。外交上の実務担当は、局務家(太政官(だいじょうかん)中の外記(げき)の上席の者)から五山禅僧を経て儒臣へと推移している。[中村栄孝]

定約通商の体制

朝鮮は、15世紀初め、日本からの渡来者を優遇したので、貿易を目当てにその数が急増した。世宗(せいそう)は、その統制策を講じ、通交者と商人を区分して自主規制を求め、常時通交者に図書(としょ)(印)を与えて保障とし、また、出入浦所(ほしょ)(港)を指定して薺(せい)(乃而(だいじ))浦(ほ)、富山(ふさん)(釜山)浦(ぽ)、塩浦(えんぽ)の三浦(さんぽ/みつうら)に限り、一方、対馬(つしま)の位置を利用し、島主の文引(ぶんいん)(日本で吹挙(すいこ)・吹嘘(すいこ)、渡航証明書)の発給を認めた。続いて積極的に「歳遣船定約(さいけんせんていやく)」(年間渡航船数の協定)で使船を制限した。1443年(嘉吉3)、対馬島主宗貞盛(そうさだもり)との「癸亥(きがい)約条(嘉吉(かきつ)条約)」で歳遣50船と限定し、その後、世祖は定約を日本本土の通交者に及ぼし、77年(文明9)、成宗(せいそう)がすべての通交者と船数を約定し、15世紀後半は、定約通商の体制が確立していた。
 当時の貿易は、朝鮮からの絹、麻布、苧布(からむし)、新興の木綿機業による織物類、朝鮮人参(にんじん)などが主要輸入品で、日本からは金、銅、錫(すず)、銀、硫黄(いおう)などの鉱産、および博多(はかた)貿易を中継として南洋特産の蘇木(そぼく)(丹木(たんぼく))、胡椒(こしょう)、黒角(こくかく)(水牛角)、諸種香料などが輸出された。朝鮮では官営貿易(一時的に私貿易も)が原則で、政府の財政負担が漸次に過重となり、滞貨も増して紛争を招いた。また朝鮮国内流通経済の発展に伴い、潜商(せんしょう)(密貿易)が常習的になり、浦所居留の恒居倭(こうきょわ)や通事と漢城(ソウル)の貴族や商人との結託も目だってきた。[中村栄孝]

約条の制限強化

16世紀の初め、中宗の対日秩序回復政策に反発して、1510年(永正7)に三浦で日本人の暴動(三浦の乱)が起こり、対馬との通交貿易が絶たれた。12年に「壬申(じんしん)約条(永正(えいしょう)条約)」が成立し、制限が強化され、浦所は薺浦一港とし、恒居倭の居留を廃し、対馬島主歳遣船を25隻に半減し、また定約者は本土の35船に更新し、継続者も再審査して図書を改給した。島主宗氏は通商体制の復旧を図り、21年(大永1)に釜山浦の再開、23年に島主歳遣船5隻の増加に成功したが、44年(天文13)海賊の蛇梁(だりょう)侵犯で疑惑を受け、通交を絶たれた。47年に、「丁未(ていび)約条(天文条約)」が成立して、島主歳遣船25隻を回復し、釜山浦一港となり、本土定約者が更新された。その後、55年(弘治1)に、日・明海賊の連合による全羅(ぜんら)道沿海の侵寇(乙卯達梁(いつぼうたつりょう)の倭変)が起こると、海賊捕斬(ほざん)の功を理由として5隻を回復し、歳遣船が30隻になった。[中村栄孝]

通商圏の変貌と対馬の貿易独占

16世紀後半は、日・明の国交が絶えたが、中国沿海の通商は新来のポルトガル人を加えて発展し、東アジアの通商圏は変貌(へんぼう)を遂げていった。中国も海禁を緩めたが、日本船は往来を許されないため、中国海賊と連合して活動し、日本の五島(ごとう)列島が、その根拠地になった。そのころ、対馬島主は、朝鮮渡航者に対する文引発給権を媒介にして、日本本土の定約者などの名義を集中的に継承し、家臣に給付して領国支配の確保に利用し、朝鮮貿易独占の体制を固めていった。豊臣(とよとみ)秀吉が、1587年(天正15)征明計画を意図し、朝鮮の従属要請交渉を宗氏に命じたのは、このような時期であった。やがて92~98年(文禄1~慶長3)の朝鮮出兵(文禄(ぶんろく)・慶長(けいちょう)の役、朝鮮では壬辰(じんしん)・丁酉(ていゆう)倭乱)となった。
 戦後、対馬島主宗氏は、その財政的基礎として朝鮮貿易の復活を急ぎ、和平の成立に尽力し、1609年に「己酉(きゆう)約条(慶長条約)」により、通交の体制を更新し、島主歳遣船20隻を復活し、釜山浦一港が開かれ、極度に制限されたが、徳川政権から朝鮮との外交事務の管掌を認められ、引き続き貿易を独占することができた。[中村栄孝]

徳川政権の外交体制

日本軍の朝鮮撤兵にあたり、明軍との停戦協定が和平の端緒になった。当時、秀吉の遺命を受けた徳川家康が、対馬島主宗氏と老臣柳川調信(やながわしげのぶ)らがその折衝にあたることを認めており、1600年(慶長5)の関ヶ原の戦い後は、積極的に継続を指令し、ちょうど明軍が帰還したので朝鮮との直接交渉が進展した。やがて家康が征夷(せいい)大将軍となり、07年には、「日本国王」の名義で送った国書に対する回答使が渡来し、交隣関係が復旧した。その後も相次いで朝鮮使節がきたが、当初から対馬島主宗氏らが、足利(あしかが)政権の慣行に基づいて策謀を巡らし、日本国王の国書を偽作あるいは改作していた。これが35年(寛永12)に暴露し、徳川家光(いえみつ)は関係者を処刑し、外交体制を刷新し、新規の儀礼に基づく「通信使」を迎えた。
 このとき、征夷大将軍の対外称号を「日本国大君(たいくん)」と定めて朝鮮の承認を得た。足利政権の例により外交を専断し、中国との復交に成功しなかったので、新例を開いたのである。徳川政権は後世、近代国際社会参加の際もこれを用いた。新井白石(あらいはくせき)が朝鮮外交儀礼を改革したとき、1回だけ日本国王号を称した。通信使は1811年(文化8)までに9回渡来し、新将軍の即位を賀し、来使に答書を託送した。[中村栄孝]

明治の外交

明治新政府は、外交権を接収すると1868年(明治1)、対馬の宗義達(よしさと)(重正)に外交関係刷新を朝鮮に交渉させ、未解決のまま外務省に継承した。朝鮮では、国王の生父興宣(こうせん)大院君李応摂政(りしおうせっしょう)時代で、排外政策を強くとっており、交渉の停滞が日本の「征韓論」を誘発した。大院君隠退後、政局が変化して76年の日朝修好条規(江華条約)が成立した。近代国際関係展開の転機になったが、一面、対中国宗属関係との矛盾が波乱を生んだ。列強の進出が政界の党争に関連して、開化・保守の対立を生み、農民の不満と苦悩から甲午農民戦争(東学党の乱)が起こり、94年、日清(にっしん)戦争を誘発した。親日開化派は甲午更張(こうごこうちょう)の改革を断行して自主独立を図り、日本は独占的支配をねらったが、列強の圧力(三国干渉)で後退し、97年には「大韓帝国」が成立した。その後、日本は近代産業の発展を背景として大陸進出を目ざし、1904年ロシアと戦って勝利すると、乙巳(いっし)保護条約を押し付け韓国を保護国とし、10年これを併合した。[中村栄孝]

日本支配と独立回復

併合後は朝鮮総督府が置かれ、明治憲法の勅令に基づく法令により、琉球(りゅうきゅう)・台湾を先例とする同化政策をとり、日本資本主義の発達に高度の寄与を続けた。地方自治拡充、官吏任用、財政制度、経済開発、兵役制度、および貴族院議員の勅選などがその基本線に沿っている。しかし、帝国主義的支配の進展につれ、民族的抵抗は高まり、独立運動とその弾圧が繰り返された。1945年(昭和20)日本の敗戦により解放された。その間、1919年(大正8)の三・一独立運動は、武断的支配から文治政治に転回させ、第二次世界大戦中の皇国臣民化と労働要員徴用の強制や徴兵制度の施行は、深刻な影響を残している。
 独立回復後、米ソ両国の対抗から1948年に韓国(大韓民国)と北朝鮮の分裂を生じ、50年の朝鮮戦争以来、長期化した。65年に日韓協定が成立し、複雑微妙な関係を生み、南北両国と日本の間には、永住権、民族教育、出入国などに関し、過去にも連なる重要問題が多い。
 なお、日本の朝鮮への侵略、併合以降、第二次大戦での日本の敗戦による解放までは「朝鮮史」の項に、解放後から現在に至るまでの交渉史は「日本と朝鮮半島との関係(第二次世界大戦後)」「朝鮮」の項に記述されているので参照されたい。[中村栄孝]
『中村栄孝著『日鮮関係史の研究』上中下(1965~69・吉川弘文館) ▽中村栄孝著『日本と朝鮮』(1966・至文堂) ▽金錫亨著、朝鮮史研究会訳『古代朝日関係史』(1969・勁草書房) ▽中塚明著『近代日本と朝鮮』(1977・三省堂)』

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世界大百科事典内の日朝交渉史の言及

【朝鮮】より

…この点にこそ,日本人が朝鮮前近代史を学ぶ最大の意味があるといえよう。【宮嶋 博史】
【日朝交渉史】
 ここでは近代に至るまでの日朝交渉史を通観するが,〈加羅〉,〈高句麗〉,〈百済〉,〈新羅〉,〈高麗〉,〈李朝〉などの項目中の日朝交渉に関する記述を併せて参照されたい。
[原始,古代]
 朝鮮半島と日本列島との間では,古くから人々の往来があった。…

※「日朝交渉史」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社世界大百科事典 第2版について | 情報

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