日本国家社会党(読み)にほんこっかしゃかいとう

改訂新版 世界大百科事典 「日本国家社会党」の意味・わかりやすい解説

日本国家社会党 (にほんこっかしゃかいとう)

満州事変下に結成された国家社会主義政党。1932年社会民衆党を脱党した赤松克麿小池四郎らと全国労農大衆党を脱党した今村等らは下中弥三郎らの日本国民社会党準備会との合同を計画したが,5月29日の結党式当日に決裂したため,日本国家社会党は下中派を除いて結成された(下中派は新日本国民同盟を結成)。党務長赤松。中央常任執行委員は山名義鶴,小池,平野力三ら10名。支持団体は日本労働同盟,逓友同志会,日本農民組合(日農),日本中小商工連盟などであった。皇道政治の徹底,国家統制経済の実現を唱えたが,右翼的民族主義と労働者運動との矛盾,時局便乗主義,組織的基盤の弱さなどのため混乱をつづけ,翌年夏には赤松派は日本主義に転向し青年日本同盟をつくり,平野の日本農民組合は皇道会へ移り,白鳥広近らの日本労働同盟は国家社会主義全国協議会をつくって四分五裂状態となった。残留派は陶山篤太郎を党務長に選んだが,34年愛国政治同盟(総務委員長小池)と改称し,36年解散した。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「日本国家社会党」の意味・わかりやすい解説

日本国家社会党
にほんこっかしゃかいとう

社会民衆党から脱党した赤松克麿(かつまろ)派を中心とする国家社会主義政党。満州事変を契機に無産運動内には、社会民衆党赤松派、全国労働組合同盟国家社会主義派、日本労働組合総連合を基盤とする下中弥三郎(しもなかやさぶろう)派など国家社会主義潮流が出現。これら三派は当初単一政党を目ざしたが人事問題などで対立し、前二者が1932年(昭和7)5月29日日本国家社会党を結成した。結党大会では「一君万民の国民精神に基き搾取なき新日本の建設を期す」を綱領に掲げ、その後「新満州国承認・国民生活窮乏打開国民大会」、五・一五事件減刑運動、農村救済運動などの「国民運動」に取り組んだ。役員は党務長赤松以下、小池四郎、安芸盛(あきさかん)、山名義鶴(やまなよしつる)、望月源治(もちづきげんじ)らであった。同年末には100余支部、1万7822名を擁した。機関紙は『日本国家社会新聞』。組織基盤は日本労働同盟、日本農民組合山梨県連(会長平野力三(りきぞう))、日本中小商工連盟、日本国民文化同盟などであった。党勢は32年秋をピークに後退し、33年7月には日本主義に転向した赤松が離党、続いて白鳥広近(しらとりひろちか)ら国家社会主義擁護派が離れ、残留した小池らも日本主義を標榜(ひょうぼう)して34年2月愛国政治連盟と改称した。

[荒川章二]

『田中真人著「『満州事変』と国家社会主義」(渡辺徹・飛鳥井雅道編『日本社会主義運動史論』所収・1973・三一書房)』『木下半治著『日本国家主義運動史I』(1971・福村出版)』

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「日本国家社会党」の解説

日本国家社会党
にほんこっかしゃかいとう

昭和前期の国家社会主義政党。満州事変後の無産政党方向転換の動きのなかで,社会民衆党を離脱した赤松克麿(かつまろ)派が,無産政党内部の国家社会主義派を糾合して1932年(昭和7)4月に結党。皇道政治,国家統制経済の実現,アジア諸民族解放などを主張し,直接行動による変革宣伝。翌年7月党首赤松らが日本主義への転換を声明し,国民協会を結成して離脱。残留派は愛国政治同盟を組織した。

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