室町・戦国時代の日蓮宗の僧。久遠成院と号する。幕府の弾圧にも屈せず《法華経》の信仰を主張したので,頭から焼け鍋をかむらされたという伝説から〈なべかむり日親〉として有名。上総国埴谷(現千葉県山武市,旧山武町)に生まれ,中山法華経寺(市川市)において出家した。やがて〈九州の導師〉として,肥前国小城郡の光勝寺(現,佐賀県小城市)に下向したが,その指導方針が本山の意向とあわず,ついに破門された。このため1437年(永享9)に上洛し,《折伏正義抄》を著して伝道への決意を語り,《立正治国論》を著して将軍足利義教に直訴を企てたが,40年2月に捕らえられて禁獄された。その翌年には恩赦によって出獄し,京都に本法寺を建立して本拠地を固め,全国各地に伝道活動を展開した。しかしその主張が他宗を激しく攻撃するものであったため,いたる所で厳しい迫害を被った。62年(寛正3)には再び幕府に捕らえられたが,翌年には自由の身となり,その後は本法寺を中心とする教団体制の確立に尽力した。この時期の著作に,《埴谷抄》《伝灯抄》《本法寺法式》《本法寺縁起》などがある。日親の果敢な伝道活動の目標は,宗祖日蓮が主張する仏法至上主義を行動の中で受け止め,発展・深化させることにあった。彼の受難の体験を神秘的にとらえようとする〈なべかむり日親〉の伝説は,江戸時代になってから集成されたものである。
執筆者:中尾 尭
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室町中期の日蓮(にちれん)宗の僧。久遠成院(くおんじょういん)と号した。上総(かずさ)国(千葉県)の人。下総(しもうさ)国(千葉県)中山の法華経(ほけきょう)寺で修学し、21歳のときに「九州の導師」として肥前(ひぜん)国松尾(佐賀県小城(おぎ)市小城)の光勝(こうしょう)寺に赴く。しかし日親の主張する信仰は厳格であったので、領主と対立を生み、破門される。やがて上洛(じょうらく)した日親は、『法華経』の純粋な信仰を将軍足利義教(あしかがよしのり)に進言しようと、『立正治国論(りっしょうちこくろん)』を著したが、捕らえられて激しい法難を受ける。獄中で、焼けた鍋(なべ)をかむらされたということから、「鍋かむり日親」の異名がある。赦(ゆる)されてからは、京都の本法(ほんぽう)寺を中心に諸地方に伝道、30余りの寺院を創建した。著書に『立正治国論』のほか『折伏正義抄(しゃくぶくしょうぎしょう)』『伝燈抄(でんとうしょう)』『埴谷抄(はにやしょう)』『本法寺縁起(えんぎ)』がある。
[中尾 尭 2017年9月19日]
(佐藤弘夫)
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1407~88.9.17
室町時代の日蓮宗の僧。上総国生れ。はじめ中山門流に属したが,その厳格な折伏(しゃくぶく)主義のため破門される。1437年(永享9)上洛して本法寺を建立。「立正治国論」を著し,命令に背いて将軍足利義教に改宗をせまる諫暁(かんぎょう)を再度行おうとしたため逮捕され,「なべかむり日親」の名の由来となるきびしい拷問をうけた。義教の死でゆるされる。弾圧中に破壊された本法寺を再建。その肖像はのち庶民の攘災招福の信仰対象となる。
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…叡昌山と号する。〈なべかむり〉の法難で有名な日親が,康正年中(1455‐57)に開創した寺で,もとは四条綾小路にあった。日親はこの寺を伝道活動の本拠とし,さらには諸地方に散在する一門の寺々の本山として位置づけた。…
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