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旭山城 あさひやまじょう

日本の城がわかる事典の解説

あさひやまじょう【旭山城】

長野県長野市にあった山城(やまじろ)。甲斐の武田晴信(武田信玄)と越後の長尾景虎(のちの上杉謙信)との間で繰り広げられた川中島の合戦ゆかりの城で、その争奪の舞台となった。同市街の西方にある急峻な旭山(標高785m)に築かれていた城で、山頂に本城の旭山城が、中腹には支城の大黒城、尾根の突端には小柴見城(こしばみじょう)があった。『寛政重修諸家譜』には小笠原満経により応永年間(1394~1428年)の大塔(おおとう)合戦のころに築かれたとあるが、築城年代および築城者はくわしくはわかっていない。戦国時代には、善光寺別当を務める栗田氏の支城となっていたと考えられている。1555年(天文24)に起こった第二次川中島の合戦(犀川の戦い)の際、武田方に与した善光寺別当の栗田鶴寿(寛久)が武田氏の援軍とともに立て籠もり、信濃善光寺平に進出して犀川を渡ろうとする長尾景虎を牽制した。記録によれば、武田晴信(信玄)は旭山城の栗田氏に兵3000、弓800張、鉄炮300挺を送ったとされる。これに対し、長尾景虎は善光寺東側にあった横山城(同市)に本陣を構えたが、旭山城への備えとして、葛山城(同市)を向城として整備した。武田、長尾両軍の戦線は膠着し、数ヵ月(200日ともいわれる)に及ぶ長滞陣ののち、駿河の今川義元の仲介により和睦が成立した。この和睦の条件に旭山城の破却が盛り込まれ、いったん廃城となった。しかし、1557年(弘治3)に武田軍が葛山城を急襲し落城させて第三次川中島の合戦(上野原の戦い)が起こると、長尾景虎は旭山城を再興して本陣を敷いた。その後、1561年(永禄4)の第四次川中島の合戦で、武田方が再び旭山城を占領した。その後、北信濃がほぼ武田氏の勢力圏として確定して以降は海津城(同市、のちの松代城)、長沼城(同市)などの平城が拠点として重視されるようになり、山城の旭山城の戦略的な役割が低下して、しだいに廃城に向かったと考えられている。現在、旭山の山頂部には40m四方ほどの一の曲輪(くるわ)跡が残っているほか、一の曲輪をはさむようにつくられた大堀切跡のほか、他の曲輪、竪堀、土塁などの遺構が残っている。また、大規模な石組みの技法を駆使した石塁の遺構もわずかに残っているが(大部分は崩落してしまった)、石積みが一切使われていない葛山城のほか越後の上杉氏系の城郭にはない特徴となっている。JR長野新幹線・信越本線・篠ノ井線、およびしなの鉄道長野駅から徒歩60分。旭山中腹には朝日山観世音堂(観音堂)が建っているが、その付近に、かつて本郭があった山頂に至る遊歩道が整備されている。

出典 講談社日本の城がわかる事典について 情報

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