斎宮跡(読み)さいくうあと

日本歴史地名大系 「斎宮跡」の解説

斎宮跡
さいくうあと

[現在地名]明和町斎宮・竹川

伊勢市と松阪市のほぼ中間、近鉄山田線斎宮さいくう駅の周辺の畑地・水田一帯に広がる東西二キロ、南北七〇〇メートル、約一四〇ヘクタールに及ぶ広大な遺跡である。斎宮・竹川たけがわ地内のみやまえ御館みたち楽殿がくでん下園しもぞの上園かみぞの祓戸はらいど花園はなぞのといった宮殿をうかがわせる小字を含む。低位段丘上に位置し、段丘のすぐ下を斎王が禊を行った櫛田くしだ川の古流といわれるはらい川が流れる。標高約一〇メートル。斎宮駅の北方に古くより斎王の森と呼称される森がある。

斎宮は伊勢神宮の御杖代として神宮に奉仕した斎王の御所とその事務を扱う数百人の役人の勤める斎宮寮とよばれる役所からなる。斎宮寮の設置は「続日本紀」大宝元年(七〇一)八月四日条に太政官処分として斎宮司を寮に准ずるとあり、同じく神亀四年(七二七)八月二三日条には斎宮寮の官人一二一人が任命されている。さらに宝亀二年(七七一)一一月一八日条には鍛冶正従五位下気太王を遣わして斎宮を伊勢国に造ったことがみえる。「類聚国史」に引く天長元年(八二四)九月の詔によれば斎宮は神宮より遠くて不便なため、度会わたらい離宮(現度会郡小俣町)卜定して常斎宮とするとあり、斎宮は一時度会に移った。「続日本後紀」承和六年(八三九)一一月二日条には伊勢斎宮に火災があり、官舎一〇〇余宇が焼けたこと、一二月二日条には多気宮地を卜定して常斎宮とすべきことが記されている。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

日本大百科全書(ニッポニカ) 「斎宮跡」の意味・わかりやすい解説

斎宮跡
さいくうあと

三重県多気(たき)郡明和(めいわ)町斎宮(さいくう)・竹川(たけがわ)に所在する斎宮(斎王宮)の遺跡。斎王(斎宮)とは、伊勢(いせ)神宮に奉仕した未婚の皇女のことで、『日本書紀』垂仁(すいにん)天皇25年条にみえる倭姫命(やまとひめのみこと)がその起源と伝承されるが、実際に確認できる最初の斎王は天武(てんむ)天皇の皇女・大来皇女(おおくのひめみこ)(大伯皇女、661―702)であるとされている。斎王制度は南北朝期まで存続し、文献史料では飛鳥(あすか)時代の大来皇女から1333年(元弘3・正慶2)の祥子(しょうし)内親王まで67人の斎王が確認される。斎宮跡はその斎王のために整備された広大な宮殿・官衙(かんが)跡をさす。

 文献上では斎宮を管理する令外官(りょうげのかん)(律令に規定のない官司)として「斎宮司(さいくうし)」(718年に「斎宮寮(さいくうりょう)」に昇格)の名がみえ、飛鳥時代あるいは奈良時代初期に斎宮に設置された。官衙である斎宮寮は、従(じゅ)五位官を頭(かみ)とする寮と、従七位官以下の主神司(かんつかさ)のほか、舎人(とねり)、蔵部(くらべ)、膳部(かしわでべ)などの12司で構成される。

 1970年(昭和45)以来の発掘調査により、宮域の内をいくつかに区切る溝、棟方向をそろえた大小の掘立て柱建物跡、柵(さく)列、井戸跡などが明らかにされた。殿舎は檜皮葺(ひわだぶ)きと萱葺(かやぶ)きで、このうち斎王は内院を居所とし、寮と諸司は中院・外院に置かれたと推定される。出土遺物としては、二彩、三彩、緑釉(りょくゆう)、灰釉(かいゆう)の施釉(せゆう)陶器と各種の土器、石帯、八花双鸞(はっかそうらん)鏡、水晶製碁石、緑釉硯(けん)、陶硯などさまざまなものが確認される。古代・中世の政治、宗教、経済、文学などの諸分野の歴史的解明にとって重要な遺跡であり、1979年、東西約2キロメートル、南北約700メートルの範囲が「斎宮跡」の名称で国史跡に指定された。

 飛鳥時代から奈良時代にかけての斎宮御殿や斎宮寮の具体的な姿は長らくわかっていなかったが、2020年(令和2)までに飛鳥時代の斎宮中枢の区画を構成する掘立て柱塀とその内部に大型掘立て柱建物1棟を確認し、さらにその西側隣接地で飛鳥時代の総柱建物跡(高床倉庫)計15棟を確認した。これらは、飛鳥時代の飛鳥浄御原宮(あすかきよみはらのみや)や難波宮(なにわのみや)の宮殿と同様の建築基礎工法を採用して造られていることも判明した。2023年には奈良時代の「正殿」にあたる東西約17メートル、南北約15メートルの大型建物跡が確認され、二つの建物をつないで一つの大きな建物にする双堂(ならびどう)を建て、その外側を囲む廂(ひさし)の空間がある特異な構造をもつことも明らかになった。この建物は、聖武(しょうむ)天皇皇女の井上(いのえ)内親王など、奈良時代の斎王の宮殿の可能性が高く、奈良時代に斎宮が大規模に整備された可能性を物語っている。

[三上喜孝 2024年10月17日]

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国指定史跡ガイド 「斎宮跡」の解説

さいぐうあと【斎宮跡】


三重県多気郡明和町斎宮・竹川にある宮殿跡。伊勢湾に注ぐ櫛田(くしだ)川とその支流、祓(はらい)川右岸の平野に位置する。1955年(昭和30)ごろまでは「斎宮(さいく)村」といわれ、古くから「斎王(さいおう)の森」と呼ばれてきたが、伊勢神宮所有の一画に顕彰碑があるだけで、幕末以来の保護にもかかわらず、長い間、幻の宮だった。その後、大規模宅地造成のための調査の結果、奈良時代の掘立柱建建物や大溝をはじめ、多数の各種土器と緑釉(りょくゆう)陶器や円面硯(すずり)などが発掘されて、斎宮遺跡との関連が注目された。確認調査の結果、「斎王の森」を中心に南北約800m、東西約2kmの地域一帯が、かつての斎宮宮殿や斎宮寮の斎宮跡であることがほぼ確定された。6~7世紀の文献資料で知られるこの斎宮が、どのような建築設計と機能的役割だったのかは不明であるが、わが国の古代~中世における国家の政治や祭祀を知るうえで、歴史的にきわめて重要な遺跡であることから、1979年(昭和54)に国の史跡に指定された。近鉄山田線斎宮駅から徒歩約3分。

出典 講談社国指定史跡ガイドについて 情報

改訂新版 世界大百科事典 「斎宮跡」の意味・わかりやすい解説

斎宮跡 (さいぐうあと)

三重県多気郡明和町斎宮,竹川にある国指定史跡。伊勢神宮に奉仕する斎王の宮殿と,その事務をとりあつかう斎宮寮と呼ばれる官衙(かんが)からなっていた。昭和40年代後半の宅地造成計画にともなう発掘調査で注目され,範囲確認調査の結果,東西約2km,南北約700m,面積約140haの広大な面積を占めることがわかった。奈良時代の遺構は西部に集中し,平安時代の遺構は中央部から東部に広がる。現状では内院,中院,主神司をはじめとする十三司の所在場所は不明であるが,発掘された建物は一定方向に配列された掘立柱建物で,たびたび建て替えられている。瓦葺きの建物は皆無。おもな出土品は三彩陶器,多量の各種緑釉陶器,蹄脚すずり,円面すずり,風字すずり,墨書土器,土馬のほか,石帯,唐鏡片,玉石,双六子(すごろくす)などがある。
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世界大百科事典(旧版)内の斎宮跡の言及

【明和[町]】より

…神前山(かんざきやま)古墳群,天皇山古墳群など多数の古墳や遺跡がある。伊勢神宮に奉仕した斎王の宮が置かれたところで,斎宮跡(史)の東方には水池土器製作遺跡(史)があり,神宮や斎宮寮に調進する土器を製作していたと考えられる。現在も蓑村に神宮の土器調製所がある。…

※「斎宮跡」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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