日本歴史地名大系 「曾庄」の解説
曾庄
そねのしよう
- 三重県:一志郡
- 曾庄
一志平野の南部、
文治二年(一一八六)四月八日の醍醐寺文書目録(醍醐雑事記)に寛平八年(八九六)閏正月二一日の曾禰庄勘文、同年三月九日の坪代勘文がみえるが、成立年代はさらにさかのぼろう。延長六年(九二八)正月朱雀院が本主の参議藤原玄上から買得し(同目録)、天暦二年(九四八)二月二八日に醍醐寺へ施入した(同七年八月五日「民部省符」醍醐雑事記)。寄進面積は水田一四〇町一〇〇歩で、寺家の所管に移ったのは同年一二月二七日であった。天慶五―六年(九四二―九四三)当庄の四至帳・寄人等交名・惣検校大炊允平清真日記などが作成されたと伝えるが(醍醐寺文書目録)、四至帳が現存しないため四至は不明。荘田は一志郡条里の第六条に散在したものと思われ、寄進当初の領域はさらに限られていたであろう。
天暦五年九月一五日付太政官符(醍醐雑事記)によれば、同年に至って水田を不輸租田とするとともに荘司・寄人らの国衙への臨時雑役の免除を申請し、免除の官符を得たが、伊勢国司藤原国風は前例に背き、荘田を収公し、雑役を賦課した。そのため朝廷へ租税・雑役の免除を申請し、同太政官符、および前出の民部省符によって改めてこれを承認された。しかしなお実行はされなかったらしく、康保二年(九六五)朝廷では五四人の浪人を当庄に寄進するとともに荘司・寄人の臨時雑役を免除し、あわせて国衙検田段米、供給などを停止せしめた。
曾庄
そねのしよう
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報