曾庄(読み)そねのしよう

日本歴史地名大系 「曾庄」の解説


そねのしよう

一志平野の南部、三渡みわたり川下流の沖積平野に位置した京都醍醐寺領の荘園。現三雲みくもかみしよう久米くめ市場庄いちばしよう、松阪市松崎浦まつさきうら町辺りに比定される。従来安濃あのう曾根そね(現安芸郡安濃町)に比定する説が広く行われていたが、醍醐寺文書はすべて「壱志郡」と記載する。貞和三年(一三四七)九月四日の曾禰庄三ケ郷沙汰人百姓等請文(醍醐寺文書)に荘内の上郷・下郷および久米郷の地名がみえ、暦応二年(一三三九)六月の醍醐寺所司等申状(醍醐寺文書)では領内に松崎浦を含むことも知られる。さらに醍醐寺座主賢俊が伊勢参宮に際して鈴鹿峠から坂下さかのした(現鈴鹿郡関町)を経て垂水たるみ宿(現津市)に着いたが、宿が下品であったので泊らず、その夜中に発って当庄に着き、翌日棚橋たなはし(現度会郡度会町)に向かったということからも(「賢俊僧正日記」貞和二年一一月五日―六日条)、安濃郡説は無理となる。

文治二年(一一八六)四月八日の醍醐寺文書目録(醍醐雑事記)に寛平八年(八九六)閏正月二一日の曾禰庄勘文、同年三月九日の坪代勘文がみえるが、成立年代はさらにさかのぼろう。延長六年(九二八)正月朱雀院が本主の参議藤原玄上から買得し(同目録)、天暦二年(九四八)二月二八日に醍醐寺へ施入した(同七年八月五日「民部省符」醍醐雑事記)。寄進面積は水田一四〇町一〇〇歩で、寺家の所管に移ったのは同年一二月二七日であった。天慶五―六年(九四二―九四三)当庄の四至帳・寄人等交名・惣検校大炊允平清真日記などが作成されたと伝えるが(醍醐寺文書目録)、四至帳が現存しないため四至は不明。荘田は一志郡条里の第六条に散在したものと思われ、寄進当初の領域はさらに限られていたであろう。

天暦五年九月一五日付太政官符(醍醐雑事記)によれば、同年に至って水田を不輸租田とするとともに荘司・寄人らの国衙への臨時雑役の免除を申請し、免除の官符を得たが、伊勢国司藤原国風は前例に背き、荘田を収公し、雑役を賦課した。そのため朝廷へ租税・雑役の免除を申請し、同太政官符、および前出の民部省符によって改めてこれを承認された。しかしなお実行はされなかったらしく、康保二年(九六五)朝廷では五四人の浪人を当庄に寄進するとともに荘司・寄人の臨時雑役を免除し、あわせて国衙検田段米、供給などを停止せしめた。


そねのしよう

小倉南区曾根そねから上曾根付近までを含む地域に比定される。建武四年(一三三七)九月五日の一色道猷充行状(武雄鍋島文書/南北朝遺文(九州編)一)によれば、辻後藤五入道に勲功の賞として「曾禰庄内曾禰弥四郎入道跡」内の「田地拾町畠地屋敷可依田地分限地頭職」が宛行われている。延文五年(一三六〇)一月二六日藤原種継より曾根庄神宮寺薬師如来・求菩提山くぼてさん上宮に鰐口が寄進された(「求菩提山鰐口銘」太宰管内志)。応永の乱により一時的に豊前へ進出した少弐貞頼は筑紫次郎に曾禰村を与えた(応永七年三月一一日「少弐貞頼充行状」筑紫古文書/大宰府・太宰府天満宮史料一二)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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