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越前国の戦国大名朝倉孝景が子の氏景に残した家訓。伝本により「朝倉英林壁書」「朝倉敏景十七箇条」などともいわれ,内容に若干の異同もある。文明年間の成立と推定されているが,16世紀初頭朝倉宗滴(そうてき)が編集したという説もある。重臣の世襲制を否定して有能な人材の登用を説くなど,革新的・合理的な内容。とくに領国内に朝倉本城以外の城郭を認めず,家臣に一乗谷(いちじょうだに)への集住を求め,領地には代官をおくよう規定した点は,戦国大名朝倉氏の集権支配への志向を表したものとされる。しかし現実には,家臣団の世襲制や領国内に城郭が多数存在したことなど,家訓の理念は朝倉氏の領国支配で必ずしも実現しなかった。「日本思想大系」所収。
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…敏景(孝景)のとき,応仁の乱および主家斯波氏の内紛に乗じ,1471年(文明3)越前一国を領し,一乗谷に城を築く。《朝倉孝景条々》は戦国家法として有名。孫の貞景は一向一揆および同族争いを鎮め領国支配を確立。…
…父祖や家長が子孫,一族,あるいは家臣に対して作成した訓戒。
【日本】
中世前期には有名な《北条重時家訓》《北条実時家訓》などがあり,後期には戦国期の《朝倉孝景条々》と伊勢長氏の《早雲寺殿廿一箇条》,それに子息3人に3本の矢でさとした逸話で有名な《毛利元就書状》が知られている。北条重時,実時,毛利元就のものは,父が子に与えた訓戒として,狭義の家訓にもっとも適合的な内容のものであり,他方,《早雲寺殿廿一箇条》は家・一族共同体の支配に擬制された大名領国下の家臣団を対象とした広義の家訓の一例といえよう。…
※「朝倉孝景条々」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
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