父祖や家長が子孫,一族,あるいは家臣に対して作成した訓戒。
中世前期には有名な《北条重時家訓》《北条実時家訓》などがあり,後期には戦国期の《朝倉孝景条々》と伊勢長氏の《早雲寺殿廿一箇条》,それに子息3人に3本の矢でさとした逸話で有名な《毛利元就書状》が知られている。北条重時,実時,毛利元就のものは,父が子に与えた訓戒として,狭義の家訓にもっとも適合的な内容のものであり,他方,《早雲寺殿廿一箇条》は家・一族共同体の支配に擬制された大名領国下の家臣団を対象とした広義の家訓の一例といえよう。《朝倉孝景条々》は分国法に分類されるときもある。
総じて中世武士層の生活とそこに生きてはたらいていた思想を知るのに役立つが,とくに重時家訓は若年の子息に対して,もっぱら〈人ニ称美セラレ〉〈万人ニ昵ビ,能ク思ハレ〉るための心得に終始し,あたかも現代人の〈処世訓〉の類にも似た趣がある。しかし,これは当時の道理の思想の盛行と見合うものと考えられる。《早雲寺殿廿一箇条》は平易な文章で〈正直〉〈ありのままなる心持〉をもてという態度であり,〈上下万民に対し,一言半句にても虚言を申すべからず〉という家臣の日常生活と主君への奉公の心得を説いている。
近世に入ると家訓の作成は商人や農民などにも及んだ。内容としては〈君君たらずとも,臣民は主に対して反抗せず,裏切りもせずに誠を尽くすことが当然と考えよ〉とさとすもの,綿々と治世の原理を説いたもの,自己の経験を語って子孫の参考にしようとしたものなどから,近世の平和とそれに伴って発達した儒教の影響によって,経書の教えは皆家訓であるとしたり,経験よりもこの教義に従った生活を述べる教条的・抽象的なものへと変化し,さらに明治に入ると華族令による家範として法令的な家政の規準へと変質していった。
→家法 →分国法
執筆者:辻本 弘明
士農工商という職能的な身分制度に編成された江戸時代社会の商家においては,その営業が世襲性と結びついて固定的な家職=家業と意識され,武家の場合と同様にその存続と将来の繁栄を希求する目的で家訓が作成されるようになった。すなわち相当規模の家産を蓄積した大商家にあっては,営業の基礎をきずいた創業者としての初代,もしくは経営の拡大・発展に貢献して〈中興の祖〉と呼ばれる2,3代目の当主などによって執筆されることが多く,過去の体験や労苦の中から得られた経営理念なり生活信条を家訓として成文化し,子孫に伝えることによって家業の永続と繁栄に寄与することを念願したのである。早い時期の代表的な例としては近世初頭の博多の貿易商島井宗室が1610年(慶長15)に養嗣子に与えた17ヵ条から成る遺言状が知られている。その遺戒の内容は,第1条の貞心・律義・家内の和合に始まり,賭けごとの禁,交友・商売の心得から買物・食事などの日常茶飯時におよぶ節倹と勤勉を強調した処世訓で,その消極的な堅実性は江戸時代商家家訓の祖型をなすものといえる。
商家における家訓の作成が目だってくるのは,幕藩制的身分社会が固定化した18世紀前半以後のことである。17世紀後半の〈元禄の繁栄〉といわれる経済成長期に経営を拡大した三井・鴻池・住友家などの富商は,その後の停滞期にはいった享保期(1716-36)に従前の家訓を集大成した家法の制定を行っており,このような新興商人の台頭のかげで倒産していった多くの京都富商の事例を列記した三井高房の《町人考見録》なども,一種の家訓の意味をもつものといえる。したがって当時の大商家にあっては,伸長期の経営の多角化・拡大から転じて,保守的な経営の安定が意図され,家訓も単なる生活規範や経営理念を抽象的に説くものではなく,家産の分散を防止する相続法,経営の管理組織・運営法の規定など,家政と営業の全般に対する支配を強固にするための〈家法〉としての性格をもつものに展開された。そして大商家において経営の合理化の中で家と店との分離が進行する中で形成された〈家〉意識は,逆に家族のためというより,家業経営や祖先祭祀,家産運営のために存在したから,家長であっても家の永続のためには〈我意〉は抑制され,大経営の長としての行動の規範が与えられるようになり,家業に参加する奉公人や暖簾内としての同族団へと規制力が拡大されるに至った。18世紀後半になると,このような大商家に限らず,ある程度成功した中規模の商家においても,大商家を模範とした家訓類の作成が一般化した。〈家法書〉〈定法〉〈式目〉〈店掟書〉などと題されたものの中には,家訓と区別される店規・店則を含むものもあり,その内容や形式も一様ではないが,その根底に共通するものは,封建的身分社会としての時代意識を反映して,知足安分をモットーとし,家業の出精を説く中でも,祖法墨守・新儀停止という保守・伝統主義が重視され,商業活動の要諦ともいうべき才覚・算用も,私利私欲の否定=正直の徳義が優先された。そして後期における町人社会への石門心学の浸透は,各商家における家訓の独自性を希薄にし,他家の家訓の転用なども行われ,内容は大同小異のものが多くなったが,それでもひとたび家訓と定められると,その家に固有な祖法として神聖視され,子孫へ伝承された。
また同時期の農村にあっても,土地の集積が進んだ上層農家では,家産意識の形成が進み,遺言状などの形で家訓の作成がみられるようになった。その根底をなすものは先祖から譲られた田畑を減らさず子孫へ伝えることを義務づけ,儒教的倫理道徳を導入した修身斉家を旨とする家族の心得から,奉公人の服務規定に及ぶ家法に類するものもあるが,個条書のほか,耳目になじみやすい格言や和歌・数え歌などの形式もあった。
執筆者:鶴岡 実枝子
前近代の中国では古くから家訓が知られ,通常,家族や宗族の生活全般を律し,家門の永続を願って家長あるいは宗族の総意により作成された規範を指す。家範,家規,家言,垂訓等ともいわれ,族約,族規,宗規等も広義の意味でこれに含まれる。内容は単なる人生訓・処世訓の枠を超え,家礼,土地経営,学問,交際等多岐にわたり,違反者に対する制裁規定を伴うものも少なくない。現存する成文化された家訓では,北斉(6世紀)の顔之推の《顔氏家訓》が最古であり,以後著名なものとしては,唐の柳玭の《柳氏家訓》,宋の趙鼎の《家訓筆録》,元の鄭太和の《鄭氏規範》,明の霍韜(かくとう)(1487-1540)の《霍渭厓家訓》,龐尚鵬(ほうしようほう)の《龐氏家訓》等がある。これらは各時代において他家の家訓の手本となったり,そのままの形で使用された。
家訓は唐・宋の変革を境として増加するが,質的にも唐までの貴族制社会のものが門地(家柄)の維持を重視するのに対し,門閥の消滅した宋以後では一族の結束(族的結合)に重点が置かれている。族的結合の一手段とされる族譜の中に繰り入れられるものも増加し,家長あるいは族長の統制権も,時代が下るとともに強化されてくる。ただし同じ宋以後の家訓でも,明末・清初を境として,その内容に若干の相違が認められる。例えば思想的な面では,前者が朱子学の影響が強いのに対し,後者は陽明学的要素が濃くなっていることである。さらに明末・清初以後,地主の農業経営からの遊離と都市への移住(城居),その結果としての奢侈的風潮が進行すると,反省をこめて郷村生活への復帰を主張するようになるのも後期の家訓からである。もともと家訓が当該の時期の社会的経済的条件を反映した産物である以上は,時代によって性格を異にするのは当然であった。その意味で,唐・宋変革以後の社会では,貴族に代わった地主の秩序を維持しようとする志向が家訓の中に明らかに投影されている。
執筆者:檀上 寛
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
家の存続と繁栄を願って親が子孫に残した訓誡(くんかい)。奈良時代に、吉備真備(きびのまきび)が中国南斉の『顔氏家訓』に倣って書いた『私教類聚(るいじゅう)』が、わが国最古の教訓書とされる。平安時代では、宇多(うだ)天皇が幼少の醍醐(だいご)天皇に与えられた「寛平御遺誡(かんぴょうごゆいかい)」、公家(くげ)の家訓では、藤原師輔(もろすけ)が父忠平(ただひら)から教えられた宮廷行事の作法・心得などを子孫のために記した「九条殿御遺誡」などが有名である。しかし家訓がもっとも盛行したのは中世・近世においてであった。この時代には武家が社会の指導層となり、その武家は、家の惣領(そうりょう)・家長を中心に一族や主従が団結し、家領・家産の維持拡大による一門の繁栄を願った。したがって、家の教訓としての家訓にも内容・形式ともに多様なものが現れた。もっとも早い武家家訓とされる「六波羅(ろくはら)殿御家訓・極楽寺(ごくらくじ)殿御消息」(北条重時家訓)には、筆者北条重時の鎌倉幕府重職という為政者的立場の自覚があり、南北朝期の武将今川貞世(さだよ)(了俊(りょうしゅん))の「今川状」には、大名領主化する武士の領主としての心得などが示されている。弱肉強食の戦国時代には、苛烈(かれつ)な競争を勝ち抜くため、新しい人倫の確立、一門の団結、富国強兵の心得などを説く多くの家訓がみられる。「毛利元就(もうりもとなり)遺誡」「多胡辰敬(たごたつたか)家訓」などのほか「早雲寺殿廿一箇条」など分国法とされるものにも家訓的要素の強いものがある。江戸時代になると、幕藩体制の安定に伴い、幕府への忠誠、家中の統制、藩政への教訓などを説く大名の家訓がほとんどの大名家でつくられた。これに伴って藩の重臣級の武家でも家訓を定めるものがあった。また有力な豪商の家でも家産の蓄積が大きくなるにしたがい、勤倹を旨とし、信用を尊び、家業や家事取締りの具体的心得を示した家訓が定められた。三井(みつい)家における「宗竺(そうちく)遺書」などはその代表例である。近代以後においても家訓は存続したが、一般的には家の変質に伴いその意義は減少した。
[村井益男]
『筧泰彦著『中世武家家訓の研究』(1967・風間書房)』▽『京都府編『老舗と家訓』(1970・山川出版社)』
出典 平凡社「普及版 字通」普及版 字通について 情報
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
…さらに14世紀に室町幕府が成立すると,前代の法はこの幕府に引きつがれて,新たな発展をとげた。他面,鎌倉・室町幕府の構成分子たる大小の武士団の中には,置文(おきぶみ)・家訓(かくん)・家法(かほう)などを定めて家の生命の維持発展を図るものが多く,やがてこれらの家の規約を根幹として,領主法的性格を加えた家法が現れるようになった。これら武士政権の国家法たる鎌倉・室町幕府法および武士団の家法の総体を武家法とよぶ。…
…この両者は実際には明確に区分されることなく混在し,それが後の藩法などと比べてひとつの特徴となっているが,系譜的にも両者を弁別することが必要である。家法の出発点は,もっとも原初的な家の法規範である置文(おきぶみ)であり,家の存続・繁栄を目的とした道徳規範として定められた家訓と家法は同根のものといえる。分国法においては,この法と道徳の分離がかなり明確になっているとはいえ,なお両者の関係は完全に断ち切れていない。…
※「家訓」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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