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朝鮮統一問題 ちょうせんとういつもんだい

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

朝鮮統一問題
ちょうせんとういつもんだい

南北に分断された朝鮮の再統一問題。第2次世界大戦中,連合国間には朝鮮の将来の独立 (カイロ会談) と国際的信託統治化 (ヤルタ会談) について一定の合意が存在した。この合意は 1945年 12月末のモスクワ協定において正式に確認されている。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

朝鮮統一問題
ちょうせんとういつもんだい

朝鮮はもともと、古い歴史と豊かな固有の文化をもつ、均質性の高い国家であった。国名を大韓帝国と名のっていた当時の1910年、「韓国併合」によって日本の植民地となり、国家滅亡の悲運にみまわれたとき、朝鮮民族があげて祖国の再建を願い、以来35年間、困難を冒して独立運動を続けたのは当然であった。日本の朝鮮支配は第二次世界大戦の終結とともに崩壊した。それは本来なら単一の独立国家としての朝鮮の新たな出発点になるべきものだったが、現実は朝鮮民族にとって厳しく、大戦直後の複雑な国際情勢のもとで、今度は国土の南北分断という不幸な事態が進行した。1948年には、統一国家の形成を将来の課題として残したまま、朝鮮半島の南半部で8月大韓民国(韓国)が創建され、ついで9月、北半部で朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)が創建され、分断が本格化した。しかも南北朝鮮は互いに反目し、1950~53年には同胞相討つ朝鮮戦争の悲劇をさえ生んだ。この戦争の休戦後も南北の対立抗争は終息せず、それは朝鮮半島情勢の不断の緊張要因となって今日に至っている。この状態を克服して国土と民族の統一を回復することは、階層や思想信条の差を超えたすべての朝鮮(韓国)人の民族的悲願であり、また、重大な国際的関心事でもある。そのため、この問題をめぐるさまざまな努力が、現に南北朝鮮間および関係諸国間で繰り返し行われている。だが、分断後長い歳月を経て、現在の南北朝鮮の間には、北の社会主義、南の資本主義という社会体制の大きな差が形成されている。韓国が西側陣営の東北アジアにおける軍事戦略拠点の一つになっていたという国際政治上の問題もある。朝鮮民族の願いにもかかわらず、南北統一への歩みはなお多難だといわなければならない。[並木真人]

南北分断の経緯

第二次世界大戦中の1943年11月、米・英・中3国の首脳は対日戦争の目的をうたい上げたカイロ宣言のなかで、「三大国は朝鮮の人民の奴隷状態に留意し、やがて朝鮮を自由かつ独立のものたらしむるの決意を有す」と述べ、朝鮮の独立に対する支援を国際的に公約した。カイロ宣言の内容は1945年7月のポツダム宣言に引き継がれ、ソ連は同年8月8日、この宣言に参加して日本に宣戦した。しかし、朝鮮に関する連合国の公約は、かならずしも誠実に履行されたわけではなかった。
 対日戦争に参戦したソ連軍は、朝鮮北部にいた日本軍を攻撃してこの地域を占領した。一方、朝鮮南部は日本の降伏後上陸した米軍によって占領された。北緯38度線を境界とするこの朝鮮分割占領は、朝鮮半島全域がソ連の勢力下に置かれることを阻止したいと考えたアメリカが、日本降伏の直後、急遽(きゅうきょ)ソ連に要求して実現させたもので、それ自体すでに米ソの「冷戦」を含意していた。戦後一段と深刻になった「冷戦」は、朝鮮の民族自決の障害となり、南北分断の最大の原因となった。
 1945年12月、モスクワで開かれた米・英・ソ3国の外相会議は、朝鮮の国家再建(民主主義臨時政府の樹立)を支援する方策の立案を、その地域に駐留する米ソ両軍政の共同委員会にゆだねることで合意した。米ソ共同委員会は1946年3月から5月にかけて開催されたが、意見の対立で結論が得られず、翌年5月の再開後も難航を続けた。その間、朝鮮の北と南では、それぞれ別個の国づくりの準備が進められた。ソ連軍政が住民の自治を大幅に認めた北朝鮮では、1946年2月に民主主義臨時政府の樹立を念頭においた北朝鮮臨時人民委員会がつくられて、土地改革その他の「民主改革」を実施した。この機構は翌47年2月、北朝鮮人民委員会に発展した。米軍が直接軍政を実施した南朝鮮では、左派の運動が規制され、1946年12月、軍政庁の諮問機関として中道派と右派の政治家を集めた南朝鮮過渡立法議院が設立された。
 1947年9月、アメリカは米ソ共同委員会の難航を理由に、朝鮮問題処理の国連への移管を求める提案を第2回国連総会で行い、ソ連の反対を押し切ってこれを可決させた。翌48年5月、国連の関与を拒否した北朝鮮を除外して、国連朝鮮臨時委員会(UNTCOK)監視下の総選挙が南朝鮮で実施され、その結果、同年8月15日、李承晩(りしょうばん/イスンマン)を初代大統領とする大韓民国が発足した。これに対抗して、北朝鮮でも同年8月独自の総選挙が行われ、9月9日、金日成(きんにっせい/キムイルソン)を首班とする朝鮮民主主義人民共和国が樹立された。これに伴い、ソ連軍は同年12月、米軍は翌49年6月、それぞれ撤退を完了した。[並木真人]

南北の抗争

分断が決定したのち、北朝鮮は統一のための話し合いをたびたび韓国に呼びかけたが、頑固な反共主義者として知られた大統領李承晩はこれを無視して「北進統一」(武力統一)を呼号し、南北間の対立は激化した。それに対して、北朝鮮が軍事力で一気に統一を実現しようと引き起こしたのが、1950~53年の朝鮮戦争である。この戦争は軍事的決着をみないまま休戦となり、その戦後処理と南北統一への環境づくりを目的にして、54年5月にスイスのジュネーブで開かれた関係諸国の国際会議も失敗に終わった。国連軍の中核として朝鮮戦争に参戦した米軍は休戦後も韓国駐留を継続し、また、戦争前の北緯38度線にとってかわって、新たに軍事境界線(休戦ラインともよぶ)が一段と厳しく南北を隔てることになった。1960年4月の「学生革命」で李承晩政権が倒れると、北朝鮮は改めて統一のための話し合いを韓国に呼びかけた。これを契機に、韓国では南北の平和統一促進を求める大衆運動が大きな高まりをみせた。しかし、翌61年5月の軍事クーデターで登場した朴正煕(ぼくせいき/パクチョンヒ)政権は、ただちにこの運動を抑圧し、「勝共統一」(北朝鮮の共産主義に打ち勝っての統一)、「先建設後統一」(まず経済建設を急ぎ、南北統一はそのあとに)のスローガンを唱えた。南北両政権の対決状況は、1960年代全体を通じて変わることがなかった。[並木真人]

1970年代以降の変化

1970年代に入ると、南北両政権は相変わらず厳しい対決姿勢を維持する一方で、統一問題への寄与を理由にした話し合いを断続的に実施するようになった。その最初のものは、1971年9月から始まった南北赤十字会談である。この会談は、朝鮮戦争の際に南北に離散した家族を捜し出し再会させることを直接の目的に掲げた。ついで1972年7月政権首脳の意を受けて重ねられた高級幹部の秘密会談の末、「7・4南北共同声明」が発表された。同声明は、自主・平和・民族大団結という「祖国統一三大原則」を確認し、これに基づいて統一問題を討議する南北調整委員会を構成することを明らかにした。同声明は、従来互いに「傀儡(かいらい)徒党」であると誹謗(ひぼう)中傷してきた相手方を、事実上一つの政権として承認した点で、画期的なものであった。これによって、在日朝鮮人社会も含めて、南北で統一への期待が大いに高まった。
 こうした南北対話の開始について、南北両政権はどちらも、自分たちの創意と英断によるものと説明した。南北の和解を求める内外の世論の一定の反映だったことは確かだろう。他面、その背後には複雑な事情もいろいろとあった。その一つはアメリカの朝鮮半島政策の手直しである。
 アメリカ政府は従来、北朝鮮の存在を認めず、韓国の旗のもとでの南北統一を推進しようとする「一つの韓国」政策をとっていたが、1970年ごろから、南北両政権の平和的共存を推進することによって朝鮮半島の安定化を図るという「二つの朝鮮」政策に転換し、その立場から韓国に南北対話の実施を勧告したのである。韓国政府がこれに応じた理由のなかには、1960年代なかばからの経済開発の進展で韓国のほうが北朝鮮よりも経済的優位にたちつつあり、したがって南北対話でも主導権をとりうるとの判断があった。北朝鮮からいえば、アメリカの「二つの朝鮮」政策は南北分断固定化の政策であって、統一促進とはまったく逆であった。加えて、南北対話の進展は、統一に備えて国内体制の締付け強化を迫るものであった。
 韓国では、従来の「先建設後統一」路線を克服しようとする世論の要求が、政権の存立基盤である国家保安法・反共法の撤廃要求と結び付いた。これに危機感を抱いた朴正煕政権は、1972年10月非常戒厳令を布告し、続いて大統領権限を最大限強化した憲法改正を断行した。以後1979年まで続く、「維新体制」とよばれる朴正煕の独裁下で、統一をめぐる論議は政府の専管事項とされ、野党や民間の統一論議は「利敵行為」として厳しく弾圧された。1973年6月政府は南北の国連同時加盟を提案したが、これは「一民族二国家」を前提としている点で、「南北共同声明」からの後退として受け止められた。以後、韓国はアメリカの政策に呼応して、「二つの朝鮮」路線を採用していった。
 北朝鮮では1972年12月社会主義憲法が制定された。新設された国家主席に金日成が就任し、彼の主体思想(チュチェ思想)を社会全般を支配する唯一の指導的理念として規定した。金日成の独裁体制の完成である。翌年6月韓国の提案と同じ日、北朝鮮は「祖国統一五大綱領」を発表し、「高麗連邦共和国統一方案」を提示した。これは、社会主義と資本主義の二体制を認定し、単一国号下で連邦を形成して国連に加盟することを呼びかけるものであった。
 しかしながら、南北の提案は、ともに相手方によって即座に拒絶された。こうしたなかで南北対話は停滞し、形式的議論の応酬のすえ、南北赤十字会談は1978年3月、南北調整委員会は76年7月、それぞれ何ら成果を収めることなく中断してしまった。[並木真人]

統一方案の提示

韓国では、1979年10月朴正煕の暗殺により政治情勢が流動化し、「ソウルの春」とよばれる民主化運動のなかで、南北統一の気運が高まった。しかし、これは1980年5月光州での民主化要求などを軍事力で弾圧した(光州事件)全斗煥(ぜんとかん/チョンドファン)政権の登場によって霧散してしまった。全斗煥政権は基本的に朴正煕政権の「二つの朝鮮」路線を踏襲し、数回にわたって南北首脳会談の開催を提唱した。さらに、1982年1月「民族和合民主統一方案」を発表した。これは、南北首脳会談での合意に基づき、双方の代表による「民族統一協議会」を構成し、ここで統一憲法を起草すること、それまでの過渡的措置として「南北韓基本関係に関する暫定協定」を締結して互恵平等に基づく相互交流を推進すること、という2点を骨子としていた。
 他方、北朝鮮は1980年10月「高麗民主連邦共和国統一方案」を提示した。これは、在韓米軍の撤退を実現させた後、南北の相異なる体制を存続させたまま、双方に「地域自治政府」を構成し、さらにその上部機関として南北全体を代表する「民族統一政府」と、南北同数の代表からなる「最高民族連邦会議」を置き、緩やかな連邦制国家を樹立するという構想である。この背景には、1970年代以降南北の軍事力・経済力の格差が拡大するなかで、統一問題における主導権を掌握しようとした北朝鮮の政権の戦略があった。そして、これが現在のところ、北朝鮮提案の統一方案の基本となっている。
 さらに、1984年1月には南北朝鮮にアメリカを加えた「三者会談」の開催を提案した。これを契機に80年代なかば、南北間で対話の雰囲気が醸成された。1984年4月以降体育会談、経済会談、赤十字会談、国会会談予備会談が相次いで開催・再開された。加えて、1985年9月には離散家族の故郷訪問と芸術公演団の相互訪問が実現した。しかし、対話の動きは、86年1月米韓合同軍事演習(チーム・スピリット)に対する北朝鮮の反発で中断した。
 1980年代の一連の動向に対して、周辺の日本・アメリカ・中国などは、朝鮮半島情勢の安定化のためには南北対話の拡大が望ましいという見解をそろって示し、これら南北の動向を支援した。[並木真人]

現実問題としての統一

南北の格差が顕著になるなかで、1988年2月発足した韓国の盧泰愚(ろたいぐ/ノテウ)政権は、積極的な対外政策、統一政策に乗り出した。まず、オリンピック・ソウル大会の開催を契機とする「北方政策」の展開により、従来北朝鮮の同盟国であった東欧諸国と相次いで国交を樹立し、1990年ソ連、92年中国とも修交して、これを完了させた。さらに、「北方政策」の延長線で、中断していた北との関係改善が図られた。1988年7月南北の相互交流や離散家族の相互訪問、南北間交易などを内容とする「7・7宣言」(正式名称は「民族自存と統一繁栄のための大統領特別宣言」)を提案したのに続いて、89年9月には「韓民族共同体統一方案」を発表した。同方案は、南北首脳会談で「民族共同体憲章」を採択した後、統一国家樹立のための過渡的体制として、傘下に「南北首脳会議」「南北閣僚会議」「南北評議会」などを置いた民族共同体である「南北連合」を構成し、統一憲法を制定するという構想である。これが、現在までの韓国の最終的な統一方案であるが、北朝鮮の提案とは異なり、単一国家を志向している点に特徴がある。韓国が、北朝鮮を吸収統合して統一を達成する戦略を現実的政治課題として、視野に入れ始めたことの表れであるといえよう。
 この時期から、南北統一問題の主導権掌握において、徐々に韓国が攻勢を強めるようになった。1991年9月南北の国連同時加盟は、北朝鮮が従来の一国加盟方式を放棄し、韓国が従来から唱えていた二国加盟方式に同調することによって実現したのであった。さらに、国際的孤立から守勢にまわった北朝鮮との間で、新たな関係を打ち立てる動きがみえた。1990年9月懸案の南北首相会談が実現し、91年12月第五次会談では「南北間の和解と不可侵および交流・協力に関する合意書」(基本合意書)と「朝鮮半島の非核化に関する共同宣言」が採択された。これにより、政治的和解と軍事的不可侵を前提に、経済面や社会面での交流が促進される段階に至ったが、南北対話は1993年2月、韓国で金泳三(きんえいさん/キムヨンサム)政権が発足した後も前進と後退を繰り返した。94年6月核査察問題の打開のため北朝鮮を訪問したアメリカ元大統領カーターの仲介で、7月末には史上初めての南北首脳会談が実現する運びとなった。しかしその矢先、金日成が死去して会談は無期延期され、弔問の取扱いをめぐり両者の関係は悪化した。
 1980年代なかばからの長期にわたる経済建設の困難に加えて、94年から96年まで3年連続の雹(ひょう)害・水害(97年は干魃(かんばつ))にみまわれた北朝鮮は、体制崩壊の予測さえなされる経済危機に陥った。統一が思いもよらぬ形で「現実化」するかもしれない状況が、醸成されたのである。それに対して、朝鮮半島情勢の安定化を図る韓国やアメリカ・日本・中国などは、北朝鮮の体制の「維持」を主眼とする路線を採用した。すなわち、北朝鮮の電撃的な崩壊による混乱を回避し、漸進的な開放政策の実施による「ウリ(われわれ)式社会主義」からの離脱(ソフト・ランディング)のための工作が推進されたのである。1996年4月韓国大統領金泳三とアメリカ大統領クリントンの会談で四者(南北朝鮮・アメリカ・中国)会談の開催が合意され、97年8月には北朝鮮と中国も参加して、四者による予備協議が開始され、12月にはスイスのジュネーブで第1回本会談が開かれた。
 北朝鮮の経済危機が食糧難を中心に一段と深刻さを増していき、前途は予断を許さない情況となった。統一実現にあたり主体的な役割を果たすことが期待される韓国の立場で考えてみると、まず、決定的な南北の経済格差をどのように平均化するかが大きな課題となる。1996年時点で、名目GNP(国民総生産)は北朝鮮の214億ドルに対して、韓国は4804億ドルと22.4倍の格差が、また1人当りのGNPは、北朝鮮の910ドルに対して、韓国は1万0548ドルと11.6倍の格差がある(韓国銀行調べ)。こうした経済格差は年々拡大し、2002年には、1人当りの国民所得で、北朝鮮の762ドルに対して、韓国は9930ドルと13.0倍に達した(韓国銀行・世界銀行調べ)。また、統一に伴う諸費用をどう調達するかも重大な課題の一つである。各研究者や研究機関の推算によれば、最低400億ドルから最高2兆5000億ドル、平均6919億ドル(韓国統一院調べ)となる。これらは基準が大幅に異なるために単純に比較することはできないが、いずれにせよ、韓国国民の重税負担と政府の過大な財政負担によるスタグフレーションの発生が危惧(きぐ)される。加えて、1997年11月から急激に悪化した韓国の経済危機は、南北統一の展望にも暗い影を落とすものとなった。
 このような情況の中、1998年3月韓国大統領に就任した金大中(きんだいちゅう/キムデジュン)は、南北経済共同体の構想や、政府レベルでの対北経済支援を盛り込んだベルリン宣言を発表するなど、対北朝鮮包容政策(太陽政策)をとった。そして2000年4月、朝鮮半島分断後初の南北首脳会談を6月に北朝鮮の平壌で開催するという合意が成立した。6月13~15日、平壌を訪れた韓国大統領金大中と朝鮮労働党総書記金正日(きんしょうにち/キムジョンイル)は、首脳会談で南北統一への取り組みに合意し、共同宣言に署名、朝鮮統一問題は新たな局面を迎えた。その後、南北閣僚級会談が頻繁に開催され、同年9月には初めての南北国防相会談が開催された。また、首脳会談での合意に基づき、8月には15年ぶりの離散家族の再会が実現し、以後定期化に向けた努力が進められた。さらに、2002年9~10月に開催された釜山(プサン)アジア競技大会に北朝鮮選手団が参加し、韓国国民から歓迎を受けるなど、交流が促進された。しかしながら、共同宣言と同時に示された金正日のソウル訪問がいまだに果たされていないなど、南北関係の進展には課題も残されていた。2003年3月に発足した盧武鉉(ろぶげん/ノムヒョン)政権は、「太陽政策」なる名称は用いていないものの、同胞意識に基づく世論の支持を受けて、前政権の方針を継承している。[並木真人]

その後の状況

盧武鉉政権は積極的な南北宥和(ゆうわ)政策を推進した。しかし、2006年に北朝鮮は核実験や弾道ミサイル発射を実施、そのため南北対話は停滞し、韓国政府も対北朝鮮援助の再検討を迫られた。翌2007年10月、任期が終了に近づいているなかで、盧武鉉大統領は電撃的に平壌を訪問、7年ぶりの南北首脳会談を行った。この訪問は、12月に行われる大統領選挙を有利にするねらいがあったとみられている。しかし、その大統領選挙では野党ハンナラ党の李明博(りめいはく/イミョンバク)が当選した。李大統領は金大中、盧武鉉両政権で続けられてきた太陽政策に批判的で、その見直しを表明している。[編集部]
『浦野起央・崔敬洛『朝鮮統一の構図と北東アジア』(1989・勁草書房) ▽関寛治・姜昌周編『南北朝鮮統一論』(1991・日本評論社) ▽在日朝鮮人社会・教育研究所編『東北アジアの新しい秩序について朝鮮統一』(1991・晩聲社) ▽白楽晴著、李順愛他訳『朝鮮半島統一論 揺らぐ分断体制』(2001・クレイン)』

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