本多秋五(読み)ホンダシュウゴ

デジタル大辞泉 「本多秋五」の意味・読み・例文・類語

ほんだ‐しゅうご〔‐シウゴ〕【本多秋五】

[1908~2001]文芸評論家愛知の生まれ。雑誌「近代文学創刊参加。創刊号巻頭で「芸術・歴史・人間」を発表。他に「転向文学論」「物語戦後文学史」「古い記憶の井戸」「志賀直哉」など。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「本多秋五」の意味・わかりやすい解説

本多秋五
ほんだしゅうご
(1908―2001)

評論家。明治41年9月12日、愛知県猿投(さなげ)村(現豊田(とよた)市)に生まれる。第八高等学校を経て東京帝国大学国文科卒業。八高時代よりの友人に平野謙(けん)、藤枝静男がいる。プロレタリア文学運動の末尾に参加、高瀬太郎などの筆名を用い歴史小説論など重厚な評論を発表。転向後は山室静(やまむろしずか)らの『批評』に「村山知義(ともよし)論」(1937)などを寄稿。第二次世界大戦中はトルストイの『戦争と平和』論に没入。戦後は平野や埴谷雄高(はにやゆたか)らと『近代文学』を創刊。創刊号巻頭の「芸術 歴史 人間」は戦後派文学の根源的主張として著名。『小林秀雄論』(1949)、『転向文学論』(1957)も自己の内面との対決を含んだ力作。宮本百合子(ゆりこ)論への準備として白樺(しらかば)派の研究にさかのぼり、『「白樺」派の研究』(1954)を上梓(じょうし)。三巻本(のち一巻本にまとめる)の『物語戦後文学史』(1960~65)は、戦後文学に賭(か)けた著者の強烈な主張と細やかな作品分析が合致した大作で毎日出版文化賞を受けた。長距離目標に向かって悠然と仕事を進める大人(たいじん)的風格の評論家であった。ほかに『遠望近思』(1970)、読売文学賞受賞の『古い記憶の井戸』(1982)がある。平成13年1月13日死去。

紅野敏郎

『『現代日本文学大系79 本多秋五他集』(1972・筑摩書房)』『『増補「戦争と平和」論』(1970・冬樹社)』『『古い記憶の井戸』(講談社文芸文庫)』『『本多秋五全集』全16巻・別巻1(1994~99・菁柿堂)』

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20世紀日本人名事典 「本多秋五」の解説

本多 秋五
ホンダ シュウゴ

昭和・平成期の文芸評論家 元・明治大学教授。



生年
明治41(1908)年9月22日

没年
平成13(2001)年1月13日

出生地
愛知県西加茂郡猿投村花本(現・豊田市)

別名
別名=高瀬 太郎,北川 静雄

学歴〔年〕
東京帝国大学国文科〔昭和7年〕卒

主な受賞名〔年〕
毎日出版文化賞(第19回)〔昭和40年〕「物語戦後文学史」,読売文学賞(随筆・紀行賞 第34回)〔昭和57年〕「古い記憶の井戸」,毎日芸術賞(第32回)〔平成3年〕「志賀直哉論」

経歴
昭和7年プロレタリア科学研究所に入り、山室静を知り、マルクス主義芸術論に取り組む。同年高瀬太郎の筆名で「文芸史研究の方法に就いて」を発表。8年治安維持法で検挙され、9年保釈出獄して帰郷。10年北川静雄の筆名で評論「レーニンのトルストイ評について」を発表、以後トルストイ研究に取り組む。再び上京し、逓信省電務局無線課に勤務するが役人として生涯を終えたくないと、16年退職。のち中央公論社などに勤務。戦後21年平野謙らと「近代文学」を創刊し「芸術 歴史 人間」を発表。22年「『戦争と平和』論」、24年「小林秀雄論」、32年「転向文学論」を刊行。戦後派文学の代表的な評論家として活躍し、「戦時戦後の先行者たち」のほか、毎日出版文化賞受賞の「物語戦後文学史」、「『白樺』派の文学」「宮本百合子論」「志賀直哉」(上下巻)などの著書があり、57年には「古い記憶の井戸」で読売文学賞を受賞。他に「本多秋五全集」(全16巻・別巻1 菁柿堂)がある。また40年から54年の定年まで明治大学文学部教授を務めた。

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百科事典マイペディア 「本多秋五」の意味・わかりやすい解説

本多秋五【ほんだしゅうご】

評論家。愛知県生れ。東大国文科卒。戦前《森鴎外論》《村山知義論》などを平野謙らの同人誌《批評》などに発表,その後,トルストイに取り組んで《〈戦争と平和〉論》を書く(1947年刊行)。1946年,中心となって創刊した《近代文学》に巻頭論文《芸術・歴史・人間》を執筆。以後,《小林秀雄論》《〈白樺〉派の文学》《転向文学論》などの他,戦後文学を擁護した《物語戦後文学史》(1960年―1965年,毎日出版文化賞)や《志賀直哉》などで重厚な評論を展開した。
→関連項目藤枝静男山室静

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「本多秋五」の意味・わかりやすい解説

本多秋五
ほんだしゅうご

[生]1908.9.22. 愛知
[没]2001.1.13. 神奈川
評論家。第八高等学校を経て,1932年東京帝国大学国文学科卒業。同年プロレタリア科学研究所に入り,『文芸史研究の方法に就いて』 (1932) ,『森鴎外論』 (34) などで蔵原惟人,宮本顕治らに次ぐ理論家と期待された。検挙後に転向,第2次世界大戦後『近代文学』創刊 (46) に参加,同誌の基本的主張を創刊号巻頭論文『芸術 歴史 人間』 (46) で表明した。そのほか『転向文学論』 (57) ,『物語戦後文学史』 (58~63) ,『トルストイ論』 (60) ,本格的な研究として注目された『「白樺」派の文学』 (54) ,『志賀直哉』 (90) などがある。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「本多秋五」の解説

本多秋五 ほんだ-しゅうご

1908-2001 昭和-平成時代の文芸評論家。
明治41年9月22日生まれ。プロレタリア文学運動に参加し検挙されたのち,「「戦争と平和」論」の執筆に没頭。昭和21年「近代文学」創刊にくわわり,「芸術・歴史・人間」を発表。以後「「白樺派」の文学」「転向文学論」などで重厚な評論を展開する。44年明大教授。40年「物語戦後文学史」で毎日出版文化賞,58年「古い記憶の井戸」で読売文学賞。平成3年「志賀直哉」で毎日芸術賞。平成13年1月13日死去。92歳。愛知県出身。東京帝大卒。

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367日誕生日大事典 「本多秋五」の解説

本多 秋五 (ほんだ しゅうご)

生年月日:1908年9月22日
昭和時代;平成時代の文芸評論家。明治大学教授
2001年没

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