小説家。明治40年12月20日、静岡県藤枝町(現藤枝市)の生まれ。本名勝見次郎。第八高等学校を経て千葉医科大学卒業。八高時代に平野謙(けん)、本多秋五(しゅうご)と交わり、その友情は久しきにわたって続く。奈良の志賀直哉(なおや)を訪ね、のち志賀周辺の重要人物となる。大学時代にマルクス主義に共感しつつも公式主義的な考え方にはついていけなかった。第二次世界大戦後、妻の実家で眼科医の仕事に従事、また本多らが創刊した『近代文学』の陰の担い手となり、自らも短編『路(みち)』(1947)を「藤枝静男」の筆名で初めて発表。第一創作集『犬の血』(1957)で文壇に登場。私小説的姿勢を堅持しつつ夢などを媒介させた超現実的要素を大胆に導入、『空気頭(あたま)』(1967)においてその実験が成功。私小説を現代小説として活性化させ、志賀や滝井孝作(たきいこうさく)のリアリズムを発展させる力量を発揮した。『欣求浄土(ごんぐじょうど)』(1970)や谷崎潤一郎賞を受けた『田紳有楽(でんしんゆうらく)』(1976)もその延長線上の代表作。ほかに『凶徒津田三蔵』(1961)、『或(あ)る年の冬 或る年の夏』(1971)がある。発表誌は『群像』が中心で、妻の死を凝視した『悲しいだけ』(1977)も力作。平成5年4月16日没。
[紅野敏郎]
『『藤枝静男著作集』全6巻(1976~77・講談社)』
昭和・平成期の小説家
出典 日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」(2004年刊)20世紀日本人名事典について 情報
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出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報
…その中のかなりの部分は私小説への批判や提言に対応する形で私小説の変質を実現しつつある。藤枝静男が《空気頭》(1967)でシュルレアリスム風のフィクションを混合した上に,グロテスク性を追求して私小説に荒々しいダイナミックスを与えたのがその顕著な例である。一方,“第三の新人”は家庭と日常生活の再認識に向かい,島尾敏雄《死の棘(とげ)》(1960‐76),安岡章太郎《海辺(かいへん)の光景》(1959),庄野潤三《静物》(1960),阿川弘之《舷灯》(1966)などを生んだ。…
※「藤枝静男」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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