江戸幕府が仏教寺院,僧侶を統制するために発布した一連の法令。1601年(慶長6)の〈高野山法度〉に始まり16年(元和2)まで46通が下されている。このうち,1614年(慶長19)までのものは個別寺院あてのものが多かったが,15-16年に各宗派本山に下されたことによって,従来あいまいであった宗派,本山を確定することになった。家康の政治顧問であった以心(金地院)崇伝がこれらの制定に関与している。その内容は宗学奨励,本寺末寺関係の確定,僧侶階位や寺格の厳正,私寺建立禁止などが主要なものである。しかるに,〈身延山法度〉こそみられるものの,法華宗,真宗に関しては法度が下されていない。これは両宗が民衆教団であったために,その統制に慎重が期されたと解されているが,逆に教団基盤たる民衆を掌握した幕府の自信を示すものとも解される。このことは,宗派確定の試みである1631年(寛永8)に命ぜられた諸宗末寺帳作成に,真宗が加わった形跡のないこととあわせて考えられねばならない。
元和までの以上のような寺院法度の後にも,寺院法度とみるべきものが出されている。65年(寛文5)の〈諸宗寺院法度〉(5ヵ条の下知状を付す)は,元和までの個別的なものから進んで全宗派に共通するものとして出された最初である。ここでは宗内の法式や本末秩序を乱さず,徒党や異義の禁止に重点があり,ようやく宗派としての体制を整えた各宗派が,自己の手で教団秩序を維持することが期待されている。次いで87年(貞享4)に〈諸寺院条目〉が出されたが,これは従来のキリシタン,不受不施派に加えて三鳥派,悲田派が邪宗門とされ,その宗門改めに重点をおき,また王法為本を強調するなど,仏教教団の近世における役割を規定している。1722年(享保7)にも〈諸宗条目〉(諸宗僧侶法度)が出され,享保改革を反映して僧侶,寺院生活を細部にわたって規制している。またこのとき,あわせて各宗派別の法度も下された。
執筆者:大桑 斉
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まず1601年(慶長6)から15年間にわたって、中世以来の宗派組織のまとまりをもっていた天台・真言・禅・浄土宗などの本山・本寺にあてて次々に出された江戸幕府の法令。幕府は各宗派ごとの本山・本寺の地位を保証し、あわせて宗派・一山末寺の編成と教団組織化などの権限を与えた。多くは金地院(こんちいん)(以心(いしん))崇伝(すうでん)の起草にかかる。その後、日蓮(にちれん)宗・浄土真宗などその他の宗派にも及び、各宗派の本末組織が整った1665年(寛文5)には、幕府は、宗派の違いを越えて、仏教寺院・僧侶(そうりょ)全体に共通の統制策である一般総則としての寺院法度を出した。同年には諸社禰宜神主法度(ねぎかんぬしはっと)も出され、幕府の宗教統制の確立時期と理解できる。法度の具体的内容は、各宗の法式を守ること、寺院住持の資格、本末の制を守ること、寺檀(じだん)関係、徒党の禁、寺塔修復制限、そのほか僧侶の服装、仏事の儀式、女人の寺中宿泊の禁止など細部にわたる。
[高埜利彦]
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江戸幕府が寺院や僧侶の統制のために発した法令の総称。徳川家康の権力確立期にあたる1601~16年(慶長6~元和2)に,本寺権限の強化,教学研究の奨励と僧侶教育の徹底,中世以来保持していた特権の剥奪などの目的で,浄土真宗・日蓮宗・時宗を除く大寺院や各宗本山に頻繁に発令された。4代将軍家綱の65年(寛文5)7月発布の諸宗寺院法度は,本末制など教団秩序の維持を基調とし全宗派に共通したものの最初。87年(貞享4)10月発布の諸寺院条目は,宗門改(あらため)などの檀家制度の徹底とその弊害の除去を目的とし,1722年(享保7)の諸宗条目は僧侶の生活倫理を規制したものであった。
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