中国、五代後梁(こうりょう)の初代皇帝(在位907~912)。廟号(びょうごう)は太祖。本名は朱温。宋州(そうしゅう)碭山(とうざん)(安徽(あんき)省碭山県)に生まれる。郷里で儒学を教える父を幼くして失ったため、他家に養われて成長したが、877年、黄巣(こうそう)の民衆反乱軍に参加し、部将にのし上がった。しかし、形勢が不利になると、882年、唐朝に帰順して全忠の名を賜り、汴州(べんしゅう)(河南省開封(かいほう)市)を治所とする宣武軍節度使を授けられ、黄巣軍の鎮圧に功をたて、しだいに華北随一の勢力を獲得し、901年、梁王に封ぜられた。ついで、いまや地方政権化した唐朝の昭宗を監視下に収め、904年には昭宗を殺し、その子の哀帝を傀儡(かいらい)として即位させる一方、禁軍を掌握していた宦官(かんがん)勢力を一掃し、清流を誇る主要な官僚貴族を殺して黄河の濁流に投げ込むなど、唐朝の権威を否定して禅譲(ぜんじょう)革命への準備を進めた。907年、ついに哀帝を退位させて自ら帝位につき、名を晃(こう)と改め、国を大梁(だいりょう)と号し開平と改元し、汴州を開封府東都、洛陽(らくよう)を西都とした。ここに唐朝は滅び、五代最初の王朝が成立したのであるが、河東の李克用(りこくよう)ら有力藩鎮(はんちん)は梁朝を認めず、江南地方も名目的に服従するだけであったから、その支配領域は黄河中・下流域の70余州にすぎなかった。こののち、宿敵李克用の後を継いだその子李存勗(りそんきょく)(後唐(こうとう)の荘宗(そうそう))と戦って敗れるなど、軍事的に劣勢となるなかで、後継者争いから、実子朱友珪(しゅゆうけい)に殺された。
[高橋継男]
中国,五代後梁第1代の皇帝,太祖。在位907-912年。宋州碭山県(安徽省)の人。本名は朱温であるが,黄巣の反乱軍に投じ,乱後半に形勢不利とみて唐朝に下り,全忠の名を賜った。さらに恩賞として運河の要衝汴州(べんしゆう)に治所を置く宣武軍節度使に任ぜられ,その豊かな経済的立地により群雄を平定し,唐帝を保護下に置いた。907年(開平1),自らがたてた唐最後の哀帝に迫って譲位させ,帝位についた。国を大梁と号し,汴州を開封府と改称して都とした。運河時代の幕開きである。唐的伝統にとらわれず,新しい時代に即応して新興人士を抜擢し,勧農策や税役軽減を図った。しかし,河東・鳳翔・淮南・剣南の諸勢力は梁朝を認めず,また江南各地にも自立政権が成立しつつあって支配は及ばず,黄河中・下流域が実質的領域であった。とくに河東の李克用とは激しく抗争し,その子李存勖(りそんきよく)の代には河北を制せられて窮地に陥り,ついで次子朱友珪に殺された。
→五代十国
執筆者:愛宕 元
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…この時期の〈武人支配〉は,直接的には唐末の黄巣の乱に起因する。唐を滅ぼし五代最初の後梁朝をたてた朱全忠は,黄巣軍の中心的部将であり,唐側に投降してその恩賞として節度使に任ぜられた。五代第2の後唐の事実上の建国者李克用も,異民族部隊の長として黄巣の乱平定に活躍し,その功で節度使に任ぜられたものである。…
※「朱全忠」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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